悪魔の経済計算と計算不能な価値の多様性による成長戦略
科学技術は無限に進化し、新領域を創造するでしょうが、同時に、多くの既存の領域では技術的に成熟していきます。その成熟のなかで、更なる技術の高度化により製品の品質や性能を改良しようとしても、それに要する限界費用は逓増していく一方で、改良の限界効果は逓減していかざるを得ず、どこかで費用を価格に転嫁することが困難になるはずです。このとき技術革新は意味を変えなくてはなりません。さて、成熟領域での新たな技術革新は、どうあるべきか。
悪魔の経済計算
かつて、大きな土木工事では、事故は避け得ないものとされていて、一定数の死傷者の発生は予定されていたのでしょう。実際、困難な工事では、多くの犠牲者がでたはずです。その後、土木の技術は飛躍的に高度化し、万全の安全対策がとられるようになって、今日、大規模な事故で多数の死傷者がでたという報道に接することも稀になりました。しかし、作業員の死亡を伴う事故が皆無になったということではありません。やはり、事故による犠牲者の発生は不可避なのです。
当然、土木会社としては、工法の工夫、技術の改良、安全確認の手続きの精緻化などにより、犠牲者の最小化に向けた努力を怠ることはできません。しかし、そうした努力は工事原価の上昇につながらないでしょうか。競争的条件のもとで受注しているなかで、原価上昇を受注価格に反映できるでしょうか。
更に、哲学的な問いを提出するならば、仮に、犠牲者一人に1億円の補償をするとして、最大で数名の死亡事故を見込んだときに、その死亡事故の可能性を根絶する努力に10億円を見込まなければならないとしたら、そのような努力はなされ得るでしょうか、また、こうした悪魔の経済計算は倫理的に許されるものなのでしょうか。
規制の悪魔的意味
哲学的に解けない難問は、政治的に解くほかないのです。そこで、社会通念に照らして、また土木学会の標準的見解を参照して、公権力の強制による安全基準が策定されます。しかし、だからといって、問題の本質は変わりようがなく、規制には、あからさまにいって、公権力による悪魔の経済計算という面を否定できません。
安全基準に厳格に準拠することは、確かに完全性の確保を目的としているのには違いないのですが、実際の効果としては、安全基準に準拠している限り、事故は不可抗力とみなされて、土木会社の免責要件が確保されている点が重要なのです。
つまり、より高度な安全性を実現しようとする努力は、経済誘因によっては促し得ないため、強制により安全基準に準拠せしめる必要があるのですが、そのことは、同時に、業界共通の条件が設定されることで、安全基準以外の領域における自由競争を促しているのと同じことなのです。要は、資本主義の経済原理の根源的矛盾の露呈に対して、その矛盾を公権力の介入で修正して市場原理の枠に収めるのが規制というわけです。
規制が定める安全基準というのは、社会的な合意が得られるところで、また現段階の技術水準のもとで、最適で最善だと判断されたものなのですが、その安全基準の設定も高度化も、経済誘因のもとの競争原理によって実現されるのではなくて、政治によって、より具体的には規制当局の判断によって、なされているということです。
このことは、土木に限らず、食品、運輸、原子力等、安全性が問題となるが故に規制されている全ての産業に共通のことですし、更には、生命の危険にかかわる狭義の安全性だけでなくて、健康の維持と増進、生活の快適性や利便性の確保等、安全基準を広義に解すれば、環境規制等の他の規制についても、また金融規制についてすら、同様に考えることができるはずです。
消費の飽和
更に一般化すれば、安全基準だけではなくて、経済誘因だけでは技術の高度化が促されずに、規制のような外的要因が必要になっている領域は、他にもあると考えられます。
仮に、科学技術に無限の進歩の可能性を認めるにしても、一段階の進歩を実現するのに要する費用は次第に大きくなっていく一方で、その進歩により創造される新たな付加価値は次第に小さくなっていくのではないか、ならば、その限界費用と限界付加価値とが一致するところで、技術革新は経済誘因を失って停止するのではないか、そういう予測もなりたちます。
もちろん、情報技術など多くの分野では、依然として、一段階上の技術革新を実現することで、それに要する費用を大きく上回る新規の付加価値創造を実現していくのでしょうから、経済誘因で進化と成長を実現するという資本主義の経済原理は有効に機能していくでしょう。
しかし、他方では、例えば、家電製品をみると、機能の高度化は既に著しく進展していて、しかも低価格を実現しているので、これ以上の機能の高度化に投資しても、価格に転嫁できるとは限らず、新規に創造できる需要も大きくは見込めないかもしれませんから、投資資金を回収できる可能性は小さいかもしれません。もちろん、個々の商品においては成功する例もあるでしょう。しかし、家電産業全体としては、技術による成長は限界に達しつつあるのではないでしょうか。
家電に限らず、機能の高度化では消費を刺激できなくなっている分野は少なくはないでしょう。いわば、消費の飽和です。経済全体として、大衆消費社会の飽くことなき需要の拡大を前提にしてきた成長路線は確実に変質しつつあるのです。
計算できない文化価値
そこで、単なる機能の高度化ではない別の刺激が必要になりますが、その刺激が何であれ、経済合理性や実用性とは、次元が異なるはずです。おそらくは、文化的なもの、経済的価値に還元され得ない非経済的価値の創造につながるものなのではないでしょうか。例えば、自動車の燃費等の走行性能の改良ではなく、運転する喜びのようなものです。
もはや、自動運転や脱ガソリン車の方向を変えることはできないでしょうから、自動車産業の構造が抜本的に変わることは不可避です。そういうなかで、構造転換による機能面の本質的革新は、大きな新規需要を創造するでしょう。おそらくは、自動車産業は、全く別の交通システム産業に生まれ変わり、全く別の軌道の上で成長していくのでしょう。
しかし、旧来のガソリンエンジン車が一気に完全に消滅するわけでもありません。仮に、そこにこだわり続けるのならば、もはや、機能面の高度化に向けた技術開発では、生き残れなくなります。逆に、自動運転や電気自動車では実現できない固有性を軸にして、新たな価値創造のための技術開発こそが求められるはずです。例えば、発想の根本的な転換により、運転者が機械と一体化したかのような錯覚を起こし、自分自身が走行しているかのような躍動感をもたらし、まさに運転する喜びを与える技術の開発です。
この技術開発のなかでは、例えば、エンジン音や振動は、全く異なる視点で再評価されるでしょう。それらは運転する喜びの重要な要素をなしている可能性があるからです。エンジン音や振動には、運転性能面からする機能的価値は全くありませんが、運転を楽しむ人間には、非経済的な価値があるのです。しかも、この非経済的価値は、新たな需要を創造し、非競争的な価格設定を可能にすることで、大きな経済価値に転化し得るのです。
価値の多様性へ
今どき、車の運転を楽しむ人も減っているのも事実です。しかし、事業の要諦は市場を厳格に特定することですから、一方で、自動車産業の主流が機能の抜本的革新が作り出す交通システムを大きな未来の市場として特定し、そこに経営資源を投入するのならば、他方で、喜びとしての自動車の運転という市場を定めて、そこにこだわる企業があってもいいはずです。
車の運転に喜びを感じる人は、確かに減少しているのかもしれませんし、いずれ絶滅危惧種になるのかもしれませんが、減少の原因には喜びを与えてくれる車がなくなったこともあるかもしれず、運転の喜びを再興することで、新たな市場を創造できる可能性もないとはいえません。所詮、事業は永遠にリスクテイクなのです。運転の喜びに賭けて成功しても失敗しても、運転の喜びに賭けること自体がクルマ屋の喜びでしょう。
量としての大きな一般消費が変質していくとき、質としての個性をもつ多数の小さな需要を特定することは、今後の企業経営の重要な要素なのです。
一方では、人類の叡智は無限であり、まだまだ技術革新による新領域の創出があり、そこでは需要の創造が続くのでしょうが、他方では、科学技術的に成熟に達していく分野も多くなり、そういう成熟分野では、需要の創造ではなくて、需要の発見もしくは発掘が重要になるのでしょう。量でとらえていたときには埋もれていた需要の多様を極めた質の差、その無数の差異が再発見されてくるのです。その小さな差異に定位した事業構想こそ、多くの分野で、今後の課題となるのです。
規制改革の真の意味
規制も、その高度化によって新たな需要を生み出すものとして、全く別の役割を果たし得ます。例えば、金融においては、近年、絶対的な量的拡大が全く見込めないなかで、個々の金融機関が従来と同様の量的拡大を目指した競争を展開しても、その努力に要する費用に見合う収益をあげることができず、顧客の真の需要に応えられないどころか、むしろ顧客の利益に反した行為すら誘発してしまっている状況がありました。
これに対して、金融規制のあり方は、森信親金融庁長官のもとで、金融機能の量的拡大の終焉を前提にして、徹底した顧客の視点での金融機能の質的高度化を志向するように、根本的な転換が遂げられました。顧客の視点にたつとは、顧客の多様な需要に応えることにほかなりません。金融の未来には、量的成長はなくとも、質的高度化による成長はあり得るのです。
同様な規制改革は、教育、医療など、多くの分野で断行されていくのでしょう。そのとき、規制改革による成長戦略とは、もはや競争原理の導入による量的拡大なのではなくて、多様な価値の併存を前提にして、質的多様化を伴ったものでなければならないのです。
規制の悪魔性を暴く裁判所
では、原子力規制にも、似たような側面はあるのか。電力こそ量的拡大の見込みにくい産業の代表例です。故に、電力の安定供給体制の保護を目的とした規制環境は崩壊し、電力業界は自由競争に曝される、まさに、そういう困難な状況に直面しているところへ、原子力規制の厳格化が断行されました。いうまでもなく、規制強化に伴う費用の増大を電気料金に反映させることは著しく困難ですから、これは深刻な事態なのです。
おそらくは、原子力発電は、継続するにしても、廃止するにしても、もはや、それ自体としての成長はなく、電源構成全体の質的転換を加速させるという意味で、再生可能エネルギー分野の拡大等の新たな成長機会を創造することが重要なのでしょう。
では、厳格化された基準に合格した原子力発電所についてすら運転差止を認める裁判所の判断にも、大きな社会的意義があるのか。
哲学的にみれば、運転差止を認める裁判所の判断には、悪魔の経済計算という規制の本質を暴いた感があります。しかし、悪魔の経済計算自体を否定したわけではなく、計算根拠を極限にまで精緻化し、専門の科学者が許容した極小の危険すら計算に入れただけのようです。要は、悪魔に天使たれと命じたのではなく、もっと緻密な悪魔たれと命じたのでしょう。
こうした裁判所の判断を社会的に許容するとなると、激増してしまう原子力発電の費用に対して、それを上回る社会的付加価値、そこには漠たる安心感のようなものも含まれるのでしょうが、何か広義な価値が創造されなくてはならないはずですが、さて、それは、どのようなものなのか。