『鎌倉殿の13人』と史実 処刑から一転流罪になった頼朝、伊豆国での生活は?
1月9日から大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がはじまる。さて、第1回目は源頼朝の登場が予想されるが、その流人生活がいかなるものだったのか考えてみよう。
■源頼朝と平治の乱
久安3年(1147)、源頼朝は義朝の三男として誕生した。平治元年(1159)12月、義朝は藤原信頼と結託し、平清盛、藤原通憲を打倒しようと目論むが失敗(平治の乱)。
平治の乱で敗北した義朝は、子らを連れて東国に落ち延びた。途中、義朝は尾張国に立ち寄ったところで、長田忠致に殺された。
ところが、頼朝は逃亡中に父とはぐれていまい、迷っているところを平頼盛(清盛の弟)の家人・平宗清に捕縛されてしまう。
■池禅尼の助命嘆願
頼朝の運命は風前の灯火だった。実際、頼朝の処刑の日は、永暦元年(1160)2月9日に決まっていたといわれている。
しかし、頼盛の母・池禅尼(清盛にとって継母)が頼朝の助命嘆願を行ったのだ。
池禅尼が助命嘆願をした理由は、頼朝に早逝した子息・家盛の面影を見たからであった。
池禅尼は頼朝が死ぬようなことがあれば、食事が喉を通らなくなると述べ、決死の覚悟で清盛に助命の嘆願をしたのである。
しかし、実際のところは頼朝の母方の熱田大宮司家や頼朝が仕えていた上西門院からの助命嘆願があったと考えられている。
おそらく清盛は情に流されたのではなく、政治的な意味で配慮を行ったのだろう。
池禅尼の申し出にはさすがの清盛も折れざるを得ず、ついに頼朝の死一等を減じて、伊豆国に流罪にすると減刑した(『平治物語』)。永暦元年(1160)3月20日のことだ。
■蛭ヶ小島に流された頼朝
頼朝が流されたのは、(静岡県伊豆の国市)だった。そこは島ではなく、狩野川の中州の一つで湿地帯だった。現在、同地には「源頼朝公配流の地」という石碑も立っている。
頼朝は少年時代の14歳から、34歳までの20年間を伊豆国で過ごすことになった。流人時代の頼朝に関する史料は多くはないが、残った史料からその生活ぶりを探ってみよう。
頼朝は本来は死罪が科せられる重罪人であったため、伊豆の豪族である北条時政、伊東祐親が監視していた。
監視されたとはいえ、行動の制約はあまりなかったようで、房総半島や三浦半島まで行った形跡がある。
■頼朝の協力者
頼朝の生活を支えたのは、武蔵国に本拠を持つ比企氏であった。かつて比企尼は頼朝の乳母を務めていたので、その関係から支援を受けていたのであろう。
比企尼の娘は安達盛長と再婚し、やがて頼朝の側に仕えることになる。比企尼自身も頼朝に米を送るなどし、支援を欠かさなかったという。
頼朝に仕えた人物としては、佐々木秀義とその子・定綱、経高、盛綱の三兄弟がいる。
秀義らは義朝とともに戦ったが、敗北して東国へと落ち延び、自領の相模国渋谷荘(神奈川県綾瀬市ほか)に逃れ、頼朝に仕えた。
これらの人々以外にも、伊豆の流人時代の頼朝を支えた人物は存在し、少なくとも孤立した存在でなかったのはたしかである。
■読経三昧の日々
頼朝は父の義朝や亡くなった兄弟の菩提を弔うべく、読経三昧の日々であったといわれている。また、伊豆の箱根権現や走湯権現に厚い信仰心を持っており、参拝を欠かさなかったという。
いかにも平氏に対して、「挙兵はしない」という意思表示であるが、本心はそうでもなかったかもしれない。
実際、下級公家の三善康信(頼朝の乳母の甥)から京都の情勢を入手していたようだ。
康信は鎌倉幕府の開幕後、初代の問注所執事に就任する。頼朝は、伊豆で生涯を終えようと考えていなかったのではないか。
■むすび
頼朝が北条時政らの監視下にあったことは事実だが、その生活ぶりは文学作品に書かれているものもあり、すべてを信用するわけにはいかない。
また、頼朝が伊豆で流人生活を全うしようと思っていたのか疑問が残る。地元豪族との交流などは将来の布石とすら思えるが、本心はいかに。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】