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本能寺の変前夜、本当に明智光秀は徳川家康のもてなしに失敗したのか!? それはフェイクです

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安土城跡。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀が徳川家康のもてなしに失敗し、織田信長から激しく打擲されていた。この話は有名であるが、事実か否かを考えることにしよう。

 天正10年(1582)5月、信長は武田氏討伐に貢献した徳川家康に駿河を与え、さらに安土城に招いて、もてなすことにした。同年5月15日、家康は穴山梅雪とともに、安土城(滋賀県近江八幡市)に参上した。このとき光秀は、接待役を任されたのである。

 以下、『川角太閤記』により、その模様を再現しよう。家康一行の到着後、信長は光秀の屋敷(家康の宿所でもあった)に向かい、料理の準備状況を確認しようとした。しかし、初夏の頃で生魚が傷んでいたのか、悪臭がすでに門前に漂っていたのである。

 驚いた信長は、「これでは家康のもてなしができない」と激怒し、家康の宿を堀秀政の屋敷に変えさせた。光秀は接待役を更迭されたので、大失態である。体面を失った光秀は、用意した料理を器ごと安土城の堀に廃棄したので、城下一帯に悪臭が漂ったという。

 ところが、この話は質の劣る『川角太閤記』に記されたものであり、とても信が置けない。光秀は、家康をもてなすための準備に奔走していた。奈良の興福寺などに調度品の貸し出しを依頼し、それらは安土城に運ばれていたという(『多聞院日記』)。

 『信長公記』にも「京都・堺にて珍物をととのえ」とあり、家康のもてなしには光秀の最大限の配慮が見られる。結果、家康の饗応は無事に終わったのである(『兼見卿記』)。もし、光秀がもてなしに大失敗したならば、『信長公記』くらいに記述があってもいいはずだ。

 そもそも信長自らが、料理の準備の状況を確認しに行くのか。また、門前に異常な悪臭が漂っているのに、光秀が気が付かないことなどありえないだろう。光秀が気が付かなくても、周囲の人間が知らせるはずである。そうでなければ、あまりにお粗末すぎる。

 今回のドラマでは、鯉が臭いことになっていた。川魚なので、泥抜きが十分でなかったという設定だろう。とはいえ、貴人を招く宴会なので、毒見はしたはずである。いずれにしても、光秀が家康のもてなしに大失敗した話は、妄説なので注意すべきである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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