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紫式部が藤原彰子と打ち解けることができた秘密とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
紫式部。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部と一条天皇の中宮・藤原彰子の非常に親しげな姿が描かれている。なぜ、2人はあれだけ打ち解けることができたのか、考えることにしよう。

 藤原彰子(道長の娘)が一条天皇の中宮になったのは、長保2年(1000)2月のことである。紫式部が彰子の女房として仕えたのは、寛弘2年(1005)から翌年のことと考えられている。残念ながら、正確な年月日は不明である。

 式部は学者として名高い父の藤原為時の影響もあり、漢学や和歌にも親しんでいた。式部が彰子の女房になったのは、家庭教師役としての役割を期待されていたのかもしれない。式部は、寛弘8年(1012)頃まで彰子に仕えていたと考えられている。

 式部の学識が高かったことは、『紫式部日記』の記述からもうかがえる。式部はきょうだいの惟規とともに、為時から漢学を学んでいた。惟規は暗唱が苦手だったようだが、式部は問題なく覚えていた。為時は「式部が男だったらなあ」と嘆息したという。

 その一方で、式部は自身の学識を決してひけらかすことなく、あくまで謙虚な姿勢を貫いた。そうした態度は、ほかの女房衆だけでなく、彰子から頼りにされる理由になったに違いない。

 ただ、『紫式部日記』の中では、和泉式部、赤染衛門、清少納言に対して、かなり厳しい人物評を書き残した。特に、清少納言に対しては辛辣な人物評を残しているが、そこには嫉妬心でもあったのだろうか。

 ドラマでも描かれていたとおり、彰子は白楽天(唐の詩人)の漢詩集『白氏文集』に強い関心を抱いた。『白氏文集』は、平安時代初期に我が国に伝来したが、独学で読むには難解で、いささかの困難が伴った。

 そこで、式部は彰子に対して、こっそりと『白氏文集』の講義を行ったのである。これは、2人だけの秘密だったが、普通ならば中宮に教えていることを自慢するのかもしれない。彰子は、こうした式部の謙虚な態度に心惹かれたのだろう。

 やがて、このことを知った道長は、式部に漢籍を与えるなどの支援を行ったという。式部と彰子は講義などを通して、さらに深い絆で結ばれるようになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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