歌集から「反原発」の記録まで 能登半島地震・珠洲の被災者が技術系ボランティアの手を借りて探し出した物
能登半島地震で甚大な被害に見舞われた石川県珠洲市では、発生から2カ月以上が経っても瓦礫の山が手付かずで残っている。
しかし、被災者にとっては瓦礫の中にも大切な思い出が埋まっている。
倒壊した重い瓦屋根や柱・梁の間をかいくぐって探し物をするのは非常に危険な作業だ。それを安全に行える「技術系」と呼ばれるボランティアの手を借り、被災者は少しでも震災前の日常を取り戻そうとしている。その様子に密着した。
自宅からスリッパのまま逃げ出した夫妻の依頼
珠洲市南東部の蛸島(たこじま)町。海沿いに伝統的な木造家屋が立ち並んでいた住宅地を、元日に大地震が襲った。
「2階の書斎で年賀状などを見ていたら最初の揺れがあり、階段を降りて妻と1階のキッチンにいたら2回目の揺れで壁や天井がドサッと崩れ落ちてきた。なんやこれはと茫然としたけども、壁の隙間からなんとか這い出してスリッパのまま外に逃げたんですよ」
変わり果てた自宅の前で、砂山信一さん(75)はこう振り返った。
妻の美智子さん(70)と市内の避難所に身を寄せてから、地区の人たち40人ほどと避難生活を続ける。自宅の様子をたびたび見に来るが、一人ではどう手を付けていいか分からない。
1月半ば、市のボランティアセンターを通じて初めてボランティアに来てもらい、屋根にブルーシートをかけてもらうなどし、2月半ばには崩れた屋根を仮の支えで持ち上げたり、車を引き揚げてもらったりした。3回目となるこの日(3月2日)は、屋根の下から「思い出の品」を探してもらえることになった。
ボランティアが屋根の下から運び出した「宝物」
そのボランティアたちは普段、土木の現場で働いていたり、現役の消防士を務めていたりする。重機の扱いや救出作業については「プロ」たちの集団だ。珠洲市では蛸島町内に拠点を置き、十数人がいくつかのチームに分かれてさまざまな機材を積んだ車で支援の現場に向かう。
砂山さん宅のチームでは、まず砂山さんに母屋の間取りを紙に書いてもらい、「思い出の品」のある場所を特定。作業者自身が安全を十分に確保しながら取り出せるルートや方法を探った。
綿密な打ち合わせ後、ヘルメット姿のボランティアが太い梁の下から慎重に奥へ潜り込み、書類の束などを見つけ出した。ほこりを払い、手渡しで屋根の下から敷地の外へ。
「ありましたよ。これですか?」
ボランティアが大事そうに抱えてきた書類を向かいの駐車場に下ろすと、砂山さんは顔をほころばせた。
「これこれ! 初任地の中学校の住所録。教え子たちが私を心配して訪ねてきてくれるから、中身を見たかった。これが私の宝物!」
砂山さんは珠洲で生まれ、中学校の理科の教諭となって同じ県内の小松市などに赴任。定年まで40年余り、石川の子どもたちを育ててきた。
一方、趣味で地元の自然を題材に短歌などを詠み、昨年には自身の歌集も作った。今回、捜索を依頼した思い出の品にはその歌集や「選歌ノート」もあった。
「ああ、選歌ノートも出てきた! これでまた歌集が作れる。ありがとう」
砂山さんはボランティアに何度もお礼を言った。
「珠洲原発反対」運動時に作った手描きのビラも
さらに、違うタイプの書類も出てきた。
A3の紙いっぱいに手描きの文章があり、「魚のすめない海にしてはならない」「海を売ったらもうかるか?」といった見出しが躍っている。地元で建設計画が持ち上がった「珠洲原発」の反対運動に関わったときのビラだという。
「原発の計画地だったのはこの先の寺家(じけ)や高屋という地区だけど、この蛸島も漁師が猛反対して運動が盛り上がった。これは大変なことになると思い、地元に戻って私も運動に加わった」と砂山さんは振り返る。
ビラの発行元は「珠洲原発反対連絡協議会」。1978年に結成され、2003年に建設計画が「凍結」されるまで激しい反対運動を展開し、2005年に解散した市民団体だ。砂山さんは個人の活動として事務局長を務めていた時期がある。
この日に出てきたビラは米スリーマイル島や当時のソ連チェルノブイリ原発などで事故が相次ぎ、反原発運動が世界的に盛り上がっていた1980年代のもの。事故を起こした原発の図解や魚の絵などは砂山さん自身が描いたのだという。
「私にとっては原発闘争も歌を詠むことも『珠洲の自然を守りたい』という同じ思いから。今回、計画地だった寺家の被害などを見ると、原発ができなくて本当によかったと思う」
その上で砂山さんは「みんなが頑張って守ってきたこの地域だから、なおさら最後まで見届けたい」と地元に残る決意を示した。
妻の美智子さんも、現在の心境をこう明かす。
「この2カ月間、正直つらくて、心が折れそうでした。でも、皆さんに助けていただいて、支え合って一歩一歩前に進んでいける気もします。この残った命で誰かに恩返しをして、珠洲が復興するまで頑張りたい」
砂山さんによれば、現在の家が建ったのは1978(昭和53)年。建築基準法でいわゆる「新耐震」基準が導入された1981年よりもわずかに前の建築だ。
2007年に能登半島を襲ったM6.9の地震でも倒壊はせず、柱を増やすなどの補強をしたという。だが、今回の激しい揺れには耐えられなかった。幸い、1階のキッチン部分は昨年5月の地震後にリフォームしたばかりで、まだ丈夫な方だった。
砂山さんは古い家を完全に取り壊して撤去し、もう一度自宅を平屋建てで再建したいと願う。ただ、そのためはこの日のようなボランティア作業ではなく、行政を通じた「公費解体」の手続きに入ることになる。長い道のりとなるのは必至だ。
技術系ボランティア「住民第一の活動で信頼得たい」
今回、支援に当たったのは技術系ボランティアのネットワーク団体「DRT-JAPAN」。東日本大震災をはじめ熊本地震や西日本豪雨など、数々の大災害の現場に駆け付け、行政では対応が追い付かない道路啓開や個人の所有物の撤去・片付けなどに当たってきた。
砂山さん宅でリーダー役を務めていた加藤太地さんはこう話す。
「今回は家の持ち主に立ち会ってもらいましたが、2次避難などで立ち会ってもらえないケースもあります。そうしたときは電話で間取りを聞くなどして作業を進め、後で引き取りにきてもらいます。それは信頼関係があってこそできること。我々は住民第一・安全第一で、信頼を裏切らないようにしたい」
また、かつてなく孤立集落の多かった今回の災害では、これから「思い出の品」を探す依頼も増えていく見込みだという。
「被災地は厳しい状況ですが、つらい話ばかりでは世間の関心も薄れてしまう。我々の活動で少しでも明るい話題が被災地の外に発信されて、一人ひとりが思いを寄せるきっかけになれば」
加藤さんはそんな心がけを示して、また次の現場に向かった。