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『リアル鬼ごっこ』原作者・山田悠介はなぜ「中高生がもっとも好きな作家」なのに叩かれまくるのか?

飯田一史ライター
園子温監督の映画『リアル鬼ごっこ』が2015年7月11日から公開中です。(写真:まんたんウェブ/アフロ)

*山田悠介『@ベイビーメール』『ドアD』『その時までサヨナラ』『モニタールーム』『パラシュート』の内容に言及しています。未読の方はご注意ください。

山田悠介は、2001年に『リアル鬼ごっこ』を文芸社から自費出版してデビューし、サバイバル/デスゲームもののホラーを中心に、中高生に人気の作家として君臨してきました。デビューして15年以上、ずっとです。山田悠介は、無数に存在する自費出版作家とは一線を画しています。デビュー以来、ヒット作家としてコンスタントに作品を発表し、映画化・テレビドラマ化も次々にされてきました。

しかし、いい大人でほめるひとは、ほとんどいません。レビューサイトでも酷評だらけ。

中高生からのアツい支持と、それ以上の年代からの冷ややかな反応。

このギャップはいったいなんなんでしょうか。

文芸界の「不都合な真実」
文芸界の「不都合な真実」

毎日新聞社と全国学校図書館協議会による「学校読書調査」では、2012年に中高生に「読んだことがある作家」の名前を挙げさせると中学生33.1%、高校生51.2%とトップクラスであり、さらに「いちばん好きな作家は?」の質問に中学生の17.6%、高校生の22.3%が山田悠介の名前をあげ、だんとつのナンバーワンに輝いています(『読書世論調査2013年版』毎日新聞社)。

これはたとえば「いちばん好きな作家」について東野圭吾は中7.3%・高12.1%、有川浩は高4.1%、星新一は中3.9%・高3.9%、湊かなえは高3.8%、宮部みゆきは中1.8%・高2.5%ですから、圧倒的です。

同じく「2014年5月の1か月に読んだ本」ベスト20を見ると、デビュー作『リアル鬼ごっこ』が中1男子の9位と中2女子10位、中3男子4位、中3女子14位、高1男子15位に入っているほか、『×ゲーム』『名のないシシャ』『親指さがし』『キリン』『その時までサヨナラ』『復讐したい』などがランクインしています。

前の年、2013年ではどうでしょうか。

『リアル鬼ごっこ』が中2男子の4位と中1女子の10位になっているほか、『親指さがし』『×ゲーム』『その時までサヨナラ』『パズル』『スイッチを押すとき』『@ベイビーメール』『アバター』『モニタールーム』『ドアD』がランクインしています。

なおこうした傾向は、2012年、2011年とさかのぼっていっても、ほとんど結果は変わりません。

中高生を対象読者に、ロングセラーとなっているわけです。

にもかかわらず、咲にも述べたとおり、どんなレビューサイトを見ても評点は低く、ボロクソに叩かれ、数ある文学賞にノミネートされることもありません。

もっとも、実は、バッドエンドに終わる学園サバイバルホラー/デスゲームや、閉鎖空間での階級社会/いじめを描いたエグくて泣ける話という「山田悠介的なもの」。それは直接的なパクリ・間接的な影響を問わず、2000年代以降、とくに10代向けのエンターテインメントのあちこちで見られるようになっています。

しかし山田悠介の何がすごいのかについて、まともに分析された例はほとんどありません。

山田悠介は小中高生を対象にした「売上」の世界では勝ち組ですが、大人の「評価」の世界では扱われない。この売上と評価のかけ離れ方は異様と言っていい。

いったい山田悠介の何がそんなに大人をいらだたせるのか?

なぜほとんどの作家は山田悠介のように「中高生のもっとも好きな作家」になれないのか?

■山田悠介好きと10代全体の傾向の違い

2013年の7月から8月にかけて、東京都内の学習塾と私立高校、私立大学の講師の協力を得て、中高大学生272人に対して私が実施した、無作為抽出の無記名アンケートがあります(中学生65人、高校生178人、大学生26人。おめーの独自調査なんか信じらんねーよ、という方はちゃんとした追試をしていただくか、スルーしてください)。

その中で、「あなたが一番ハマっている作品の、どんなところが好きですか?」という質問を選択式(複数回答可)で回答してもらいました。

選択肢は、笑える、切ない、エグい、こわい、かわいい、かっこいい、テンション上がる、アツい、マネしたくなる、いっしょに楽しめる、ネタになる、集めたりレベル上げが楽しい、なごむ、おどろく/びっくりする、謎めいている、知的、もやもやしたきもちをすくってくれる、明るい、病んでいる、エロい、ドキドキする、ヤバい、泣ける、壮大、身近、萌える、落ち着く、別世界、その他[自由記述]です。

山田悠介好きをみる前に、まずは全体の結果から見てみましょう。

上位ベスト10は

「笑える」43%

「テンションが上がる」38%

「かっこいい」32%

「かわいい」26%

「明るい」19%

「泣ける」「アツい」18%

「いっしょに楽しめる」17%

「ネタになる」「なごむ」16%

でした。

対して下位項目――求めている人が少なかった要素は?

「身近」4%

「知的」5%

「病んでいる」7%

「落ち着く」「集めたりレベル上げが楽しい」「壮大」8%

「おどろく/びっくりする」「マネしたくなる」9%

「謎めいている」「もやもやしたきもちをすくってくれる」「エロい」10%。

でした(なお、母数の男女比が4対6だったので5対5になるように割り戻して計算)。

つまり、笑えるとかテンションがあがるといったポジティブな要素、「泣ける」「アツい」のような感情を揺さぶる要素をあげる人が全体では多かったことがわかります。

ちなみに、喜怒哀楽や恐怖といった感情を揺さぶる要素が上位に集中する傾向は、男女、学年、趣味嗜好さまざまなセグメントでどう切っても共通していました。

どの感情を好むひとがより多いか、あるいは感情以外に関わる要素を好みに挙げているかどうかだけが、男女やジャンルによって分かれていたわけです。

では「山田悠介が好き」にチェックしたヒト(全体の11%が該当。男子9%、女子13%)だけ抜いたらどうなったか?

全体、山田悠介好き、参考までにSF好きの「好きな作品のどんなところが好きか」比較
全体、山田悠介好き、参考までにSF好きの「好きな作品のどんなところが好きか」比較

↑こうでした(ただしこれは「山田悠介作品のどんなところが好きですか」と訊いているわけではなく、「山田悠介が好き」にチェックしたヒトが「あなたの好きな作品のどんなところが好きですか」に答えているにすぎない点は注意ください)。

情動・感情を揺さぶる要素は、山田悠介好きでもSF好きでもやはり上位を占めています。ただ全体よりも「こわい」「エグい」「ヤバい」など、ネガティブ(?)な感情が上位に来ている点が特徴です。

ちなみに山田悠介好きだけを抜くと「知的」にチェックしたのは6%でした。

このアンケート全体では「知的」にチェックしたのは5%でしたから、ほとんど比率は変わらない。

しかし実は、たとえば「SF好き」にチェックひとだけ抜くと、「知的」好きは16%もいます。

また、『読書世論調査2015年版』(毎日新聞社)で「あなたが本を読む動機は何ですか」と訊いたところ、女性より男性の方が実用的な知識を求める、若い方が年長世代より娯楽を求める、という傾向はあるようです。

若者の脳は理性や知性を司るといわれる前頭葉が未発達ですから、刺激に敏感に反応しやすく、大人と比べれば知的なものに惹かれやすくないのでしょう。

このあたりに山田悠介の売上と評価のかけ離れ具合のひみつがありそうです。

■山田悠介が変わったところ、変わらないところ

改めてになりますが、山田悠介の作風をざっと見てみましょう。

・初期はショッカー的なホラー+ゲーム(2000年代なかばまで)

人間のもっとも基本的な情動に、恐怖と緊張と怒りがあります。初期の山田悠介が追求していたのは、恐怖と緊張と怒りです。ホラー要素とゲーム要素の2つが、彼の得意とするものでした。

ホラー要素が強いものは『あそこの席』『親指さがし』『@ベイビーメール』など。

ゲーム要素が強いものは『リアル鬼ごっこ』『パズル』『ブレーキ』など。

どちらも混ざっているのが『×ゲーム』。

基本的なパターンはこうです。

閉鎖空間に幽閉された人間同士が、あるルールに基づくゲームを強制的にやらされる。クリアできない場合は死ぬか、プレイヤーの知る誰かが殺される。

そこでひとびとは命をかけて戦い、あるいは協力する。失敗すると腕をもがれたり、虫を食わされたり、熱した鉄で腕に×印の焼きを入れられたりと、エグい目にあわされてしまう。

ホラー要素が強いものでも、「あるルールに基づいて超自然現象が起こり、その結果、誰かが死ぬ」という意味ではゲーム的とは言えます。

いずれにしても初期は、ショッカー的な恐怖を狙ったものが目立ちます。目に見えてわかりやすく、ネガティブ方向にテンションを上げるような暴力が描かれていました。

・ゲーム+泣ける話へ(2000年代後半以降)

しかし、2005年ころから、作風に変化が見られます。「泣ける話」が増えるのです。

『スイッチを押すとき』(2005年)『レンタル・チルドレン』(2006年)、『特別法第001条DUST』(2006年)あたりから、超自然現象やゲーム要素を描きつつ、恐怖や苦痛よりも、親子や恋人同士の死別の悲しみをフィーチャーした作品が目立つようになります。

もちろん、デビュー作『リアル鬼ごっこ』からして、主人公・佐藤翼は生き別れた妹を助けようと必死で走りますし、父と子の反発と愛情が描かれてもいました。「ゲーム+泣ける話」(恐怖+悲哀)を得意とするのは、初期から一貫しているとも言えます。

ですが、初期はゲームの過酷さが生み出す緊張と恐怖にあきらかに力が入っていた。

また初期は、バッドエンドが多く見られました。呪いが終わらないとか(『@ベイビーメール』)、ゲームをクリアしたと思ったらまた同じことをさせられる(『ドアD』)といった具合です。

しかし2000年代後半以降の作品では、ハッピーエンドではないものの、切なく、やるせない終わり方をするものが増えていきます。

家庭をかえりみなかった男が、死んだ妻と奇妙なかたちでひとときの再会を果たし、別れるまでを描いた『その時までサヨナラ』(2008年)が代表でしょう。

・一貫して変わらないところ(1)喜怒哀楽や恐怖の描き込みとクチコミ誘発要素のしかけ

では逆に、山田悠介がデビュー以来、変わっていないところはどこでしょうか?

山田悠介の作品は、言われているほど「構成」が破たんしているわけではありません。キャラクターの「心理の変化」はきちんと描かれており、ドラマのおおまかな流れはデザインされています。

恐怖や悲哀だけでなく、困難をのりこえたときのカタルシスもあるし、親子や親友同士の愛情のよさも描いている。

ただ、「掘り下げが浅い」「とおりいっぺん」とか「設定がツッコミどころ満載」といった部分、つまり人物造形がテンプレくさいとか、ロジックが弱い、設定構築に穴がありすぎる、とよく言われているわけです。

ちなみに、口コミしたくなる要素が備わっている点も、変わっていません。

山田悠介のすぐれている点として映画監督の安里麻里は「タイトル買いさせる力がある」ことを指摘しています(『パラシュート』幻冬舎文庫版解説)。映像が浮かぶ、“絵になる”タイトルであり、「端的(シンプル)に作品イメージを具体で示せる」ものだ、と。

たしかに、日本が東日本と西日本に分裂してあらそう世界でひきさかれた男女の恋物語のタイトルは『ニホンブンレツ』。

「貴族と奴隷」という絶対的な階級制度を導入されたクラスの中で生きる中学生たちの恐怖と暴力を描いた作品のタイトルは『貴族と奴隷』。

直球です。

毎回用意される大ネタの設定(日本分裂、奴隷制度など)をそのままストレートにあらわしています。

さらに映画監督の柴田一成は、山田悠介のタイトルの特徴として「中学生たちが身近に感じる語感」をあげています(『レンタル・チルドレン』幻冬舎文庫版解説)。

ビジュアルをイメージさせるタイトルと、キャッチーな設定。

これらが中高生の口コミを誘発しているのでしょう。

柴田一成は、西暦3000年に日本には王様がいて……という設定を「ありえない」と言って否定するのが大半の大人だけれど、「うける」と言って喜ぶのが中高生であり、彼らこそが山田悠介の支持者なのだ、とも言っています。

私も、山田悠介ファンは、あるていどツッコミどころ込みで、会話のネタにしながら楽しんでいると思います。

・一貫して変わらないところ(2)文章にまったく凝らない

山田悠介のもうひとつの大きな特徴は、文章に凝らないという点です。

デビュー作『リアル鬼ごっこ』は自費出版ながら20万部以上のヒットになりました。

しかし「てにをは」すらできておらず、日本語作法はめちゃくちゃ。ずいぶん叩かれました。

では、それ以降の作品はどうでしょうか。

「てにをは」は、もちろんできるようになっています。『リアル鬼ごっこ』も2004年に出た幻冬舎文庫版では、日本語が崩壊していた部分は修正され、文章はヘタですが、ふつうに読めます。

けれど山田悠介は、その後も文章に凝る作家にはなりませんでした。

出来事や心情を、できるだけかんたんな日本語表現で説明するのみです。

私の知るかぎり、全キャリアを通じて2回か3回しか、中高生が辞書を引かないとわからなそうな表現は使っていません。

山田悠介は、基本的には中1でもすらすら読めるような日本語しか用いないのです。

よく文章読本には、「説明」より「描写」がえらい、と書いてあります。

「悲しい」と書くのではなく、人物の動作や風景を描写することで「悲しさ」を表現しなさい、と。

日本語がメタメタだった『リアル鬼ごっこ』が何十万部も売れ、その後も「説明」しかしない山田悠介が、売れつづけている。ここからわかるように「説明より描写がえらい」という価値観は、「評価」の世界の話です。文章の洗練や語彙の多さは(とくに若年層相手の作品においては)ほとんど売上には相関しないのです。

長澤まさみによる『あそこの席』幻冬舎文庫版解説は、すなおに山田悠介の文章に感じた彼女なりの「よさ」が表現されています。

でも、山田さんの作品は、とにかくスピード感が凄い。

それに、リズムがある感じ。

文中に台詞が多いので、主人公の心に入り込みやすいんです。(『あそこの席』288ページ)

「スピード感が凄い」のは、描写に力をいれず、出来事がポンポン描かれていくからです。

けれど「評価」の世界の尺度では、山田悠介の文章のように「説明」しかなく、知的さのかけらも感じられないものは0点です。

だから、文壇のえらいひとたちは誰もほめないのです。

・一貫して変わらないところ(3)奥行きのない設定/中1のリアリティ

山田悠介がよく批判されることとして「設定に奥行きがない」ということがあります。これも初期から一貫して変わっていないポイントです。

たとえば、大学生7人が見知らぬ部屋に拉致されて行われる殺人ゲームを描いた『ドアD』。この作品では、誰がなぜそんなことをさせたのか、黒幕はまったく謎、目的もわかりません。

ある村に隔離されて育てられた15歳の男女が100万個の地雷原を旅させられる『モニタールーム』。この作品では、誰がなぜそんなことをさせたのかと言えば、「偉い人が見たがったから」です。

え?

それだけ?

と思ってしまいます(もっとも、金持ちがデスゲームの参加者を道楽として見るという設定は、貴志祐介も福本伸行も使っていますが)。

ほかに似たような批判として「リアリティがない」というものもあります。

たとえば『パラシュート』をみてみましょう。主人公は、乗っていた飛行機がハイジャックされた大学生です。ハイジャック犯のテロリストからの要求を日本の首相が突っぱねたために飛行機が無人島に墜落。主人公は親友を亡くし、苦しいサバイバル生活を送るはめになります。そこで主人公はハイジャック犯と首相に復讐をちかいます。

なんと物語後半では、主人公は親友の恋人を媒介にして首相に会えてしまい、あげく首相をおどしてクルマを運転させて空港まで移動し、ハイジャック犯がひそむ国へと高飛びするのです。

あるいは『ニホンブンレツ』。東京を中心とする東日本と、大阪を中心にする西日本に、日本国が分裂してしまいます。きっかけは東京Vs.大阪の争いが暴力団の抗争のように銃撃戦にまで発展したことです。

「国政と地方自治がごっちゃじゃね?」などと突っ込んでも、はじまりません。

「いい大人の常識」ではありえないリアリティレベルですが、「そういうもの」として受け入れることから、ゲームは始まるわけです。

これらは山田悠介が、バカだからこうなっているのでは、ありません

確信的にやっているのです。

山田は設定の妙を見せるとか、緻密に構築された世界を描くことには目もくれていないだけです。

山田悠介は、閉鎖空間や極限状況に置かれた人間たちの激しく揺れる悲喜こもごもの「心情」を描く気はある。

ですが、その制度があることによって「世界」や「社会」がどうなるのかを描く気は、ありません。

山田悠介の世界は、そこが「ゲーム空間」であることを読者が受け入れるところから始まります。

中森明夫は「芝居小屋に入ったら、ステージのバックに『西暦三〇〇〇年』って書いてある。そんな感じ」と形容しています(『親指さがし』幻冬舎文庫版解説)。

言い得て妙です。

たしかにゲームやお芝居で「こういう設定です」と言われたら「ああ、『そういうもの』ね」と受け入れるものです。

山田悠介作品を読む人間にも、同じことが求められるのです。

ゲームを始めたとき「これがルールだ」と示されれば、ゲーム空間ではそれに従わざるをえません。

そしてそこには、ルールが適用されないゲーム空間の外の世界など存在しません。

山田悠介の世界はいつもカキワリ、現実世界からは区切られた舞台装置なのです。

私たちは日常的に、将棋や囲碁、チェスのようなゲームを真剣に行います。

生死をかけて戦っているのでなくても、本気になっている人間をみると、気分や情動が感染します。

ルールや設定がいくら理不尽であろうと、そこに生きる人間の行動と心理に緊迫感や信頼があれば、感情移入できるのが人間です。

リクツを必要以上につけようとせずに「そういうもの」として進むことを自分に許せば山田作品は読めますし、それができない人には読めません。

極限状態に置かれた人間からあふれ出す感情よりも、設定のつじつまや奥行きを優先する人が「知的」なひとであり、「大人」です。

そういう人は、山田作品の対象読者ではないのです。

アパレルをクビになった主人公がゴミ屋敷の片付けや老婆の仕事まで雑事を請け負う「何でも屋」で働く『オール』。この作品では、横浜埠頭の倉庫にセカンドバッグを運べ、という依頼があり、向かったさきでチンピラに絡まれます。はたしてバッグのなかには覚せい剤が入っていたわけですが、ヤクザが言うせりふはこうです。

「困るよ。我々の大事なシャブを持っていかれちゃ」

これはジュヴナイルの文体です。

おそらくほとんどの小中学生には、たいして違和感のない世界でしょう。ただし山田悠介はただのジュヴナイル――子ども向けの小説ではありません。毒のあるジュヴナイルです。

・行儀のわるい「暴力的なジュヴナイル」――わかりやすくて、毒がある

山田作品では、主人公クラスが法的・道徳的にまずいことをはたらくのもめずらしくありません。

飢えが限界に達すると人肉を食ったり(『DUST』)、

万引きの経験者だったり(『スピン』)、

アメーバピグ的なモバイルSNSでのアバターを着飾るレアアイテムほしさに仲間をリアルでぶっ殺したり(『アバター』)、

重い病気にかかった友だちの治療費をかせぐために銀行強盗をはたらいたり(『パーティ』)、

クラスメイトに大麻を与えて中毒にしたり(『貴族と奴隷』)、

……と、お行儀のよろしくない人物がよく出てきます。

小中学校の「道徳」の時間やホームルームで教師が話すようなお説教やまじめくさったきれいごとからは得られない「毒」があります。

私もこういう無能人間は生きる価値なしだと思う。一刻も早く死ぬことをすすめる。(山田悠介『自殺プロデュース』82p)

これは敵キャラが吐くことばではなく、視点人物(主役)が心で思うことです。

なんとも口が悪い。

親や教師が絶賛してこどもにすすめてくる「良い話」「名作」には書かれていない(か、むずかしすぎて読む気がしない)「むきだしのやばい言葉」が、ここにはあります。

むかしで言えば筒井康隆や江戸川乱歩の通俗長編に近い、「子どもも読みやすいのに、こわい」ものポジションを、21世紀のいま、ガッチリおさえているのが山田悠介なのです。

乱歩をいま読みかえすと、具体例をあげるのがはばかられるくらいに無邪気な差別意識にあふれていて、「いい大人がそういうこと言っちゃ絶対だめでしょ」と思うような他人に対する見下しや醜い嫉妬、ののしり、タブー破りの行為が平気で登場します。

子どもが乱歩に、そして山田悠介に惹かれるのは、「いい大人」が自主規制してしまうようなヤバいゾーンに平気でつっこんでいくからです。

そして、文章および設定の扱いにおいて、山田悠介は「知的であること」をいっさい切り捨てました。

結果、山田悠介作品は独特のテイストをもつ作品になり、いい年した大人からはバカにされ、けれど小中高校生は熱狂する。そういうものになりました。

デビューして十何年経つのに、いまだに「中高生に支持されている」。

ということはつまり、最初の読者たちはもう20代から30代になっているわけです。

しかし山田悠介は年月をかさねても対象読者を上げることなく、ずっと10代に支持される作家でありつづけている。読者が入れ替わっているわけです。

すると、かつての読者が年を取り、山田悠介よりむずかしい小説も読めるようになると、山田悠介の本はガキっぽく見え、バカっぽく見えてくる。

だからAmazonレビューなどでは「全然進歩がない」「ワンパターン」などと書くひとが出てくるのです。

それはそのひとが、たんに山田作品の対象読者から外れただけなのです。

パンツをはくようになった子どもが、オムツは赤ちゃんみたいではきたくないと思うのと同じ現象です。

けれど、オムツはオムツで必要としているひとがいるわけです。

オムツとしてのすばらしさとパンツのすばらしさを同じ評価軸で語るのは、ムリがあります。

■「知的」さを好む5%の人間を無視することがもたらす絶大な効果

エンタメに対して「知的」さを好む10代は、多くありません。全体のわずか5%。

これは下から2番目に位置するマイナーなニーズです。

山田悠介は自分の頭をよく見せようとしません。知的さを読者に訴求しない。

彼がすごいのは、「ツッコまれたらどうしよう」という他者からの攻撃(否定的な評価をくだされること)への不安からくる防御の姿勢がないことです。

虚栄心がない。

「こんなばかばかしい設定ありえないよな」と言ってアイデアを殺さない勇気を持っている。

リアリティより、どぎつさ、無邪気なおもしろさを取っている。

5%の人間がよこしてくる批判など、どうでもいいと思っているのでしょう。

多くの小説家、そして作家以上に、編集者やディレクター、プロデューサーといった「チェックする」のが仕事のひとたちは、評価を望むあまり、「知的さ」というマイナーニーズに労力を払いすぎているのかもしれません。

もちろん、ガチガチのSFや本格ミステリのように、受け手である読者が作中のロジックを重視するジャンルもあります。

しかし山田悠介のように、多くの中高生に愛されるためには「知的」であることは、捨てていい要素である場合もあるのかもしれません――なんて言ったら、あなたはどう考えるでしょうか?

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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