サムスン会長死去 韓国メディアはどう報じたか。”妻と子ども以外全部変えよ”など厳格な「語録」紹介多く
「2006年TVのグローバル市場で日本のソニーを抜き世界1位となり、アップルを捕えてスマートフォン市場でも1位となった。メモリ半導体を含め20あまりの品目で世界一の座を得た」(「聯合ニュース/10月25日午前の記事より」)
「サムスン電子が”コピーキャット”の汚名を着せられたアップルを超えるにあたり、故人の執念が大きな役割を果たした」(同)
25日午前に6年間の闘病生活の末の死去が伝えられたサムスンの2代目会長李健熙(イ・ゴニ)氏。韓国最大の財閥グループのトップの訃報(享年78)に韓国メディアも大きく反応した。
死去に際し報じられた内容により、改めて「韓国で李氏がどう見られているのか」がよく分かる。
「早稲田大学OB」。日本とかかわりもある学生時代
まずは改めて本人の略歴を。死去に際し、「聯合ニュース」が速報に近い形で詳細を報じた。
1942年1月9日、日本統治下の大邱にてサムスンの創業者である父イ・ビョンチョルの3男5女の末っ子として誕生した。慶南のウィリョンの本家で育ち、子供の頃は映画鑑賞やペット飼育を楽しんだという。
10代の頃から2度、日本とのつながりもあった。
5歳だった1947年にソウルに移ると、11歳だった1953年に「先進国を学べ」という父の厳命により日本に留学した。帰国後、ソウル大学教育学部付属高に進学し、レスリング部で活動した。
大学は延世大学商学部に進むも自主退学。日本の早稲田大学商学部に入学し直した。同大を卒業後、アメリカのジョージワシントン大学の経営学部大学院を修了している。
また、24歳だった1966年にソウル大学応用美術学部在学中のホン・ラヒ氏と結婚した。
- 幼少期の様子を伝える「韓国経済TV」
卒業後はサムスン系列だったメディアに勤務後、1970年代にアメリカシリコンバレーを飛び回り、ハイテク産業進出を模索。
1978年にサムスン物産副会長に昇進し経営の帝王学を学び始めた。三男だったこともあり、36歳からと遅いスタートだった。
しかし、その後就任したサムスンの海外事業推進委員長のポストでは企業買収合戦でよい結果を残せず。この失敗が出世レースに尾を引き、本人が経営権を引き継ぐまで時間がかかった。
1987年に父であり創業者のイ・ビョンチョル氏が死後、グループ会長に就任した李健熙氏。今回の訃報でこれを伝えるメディアもあった。
「45歳にして二人の兄をかわし…故李健熙会長の人生」(YTN)
「李健熙死去。格別だった娘への愛情…父と対立した兄2人」(朝鮮日報)
当初、1966年にサムスンの経営権を引き継いだのは兄である故イ・メンヒ氏(2015年没)だった。しかし短気な性格もあり経営が悪化。2年で降格となり、再び父ビョンチョル氏が会長職に復帰した(87年まで)。その因縁もあり、長男と父は法廷でも争うほどに関係が悪化したのだった。
猛烈な危機意識、働き方への意識喚起。フランクフルトでの「伝説の会議」にて名言多数
今日のサムスンは、韓国社会で当然のごとく人気就職先となっている。いっぽうで入社後の厳しい出世レースでも知られる。筆者自身、5年ほど前に韓国の大手新聞の経済担当からこんな話を聞いたことがある。
「出世しようと思ったら家庭か仕事か、どちらかを選ばなくてはならない」
猛烈に働かなければならない。そんなイメージもある。そこには李健熙氏の哲学があった。「大きな目標」、そしてひたすらに「考えながら走る」を強調してきたのだ。なかでも1993年6月のドイツ・フランクフルトでの会議は“伝説”となっているようで、聯合ニュースは次のように紹介している。
「李会長は(87年の会長就任後)サムスングループの組織改革がほぼ完了した後、サムスン電子のスタッフをドイツ・フランクフルトに集め『妻と子どもを除いて全て変えろ』という決心を語る演説で第2の創業を宣言した」
「以降、サムスン電子は品質経営、デザイン経営などで大飛躍を果たしたという評価を受けることとなる」
”第2創業宣言” 変化の覚悟を決めたなら、妻と子ども以外すべて変えよ
この場ではこんな言葉を残している。
- "フランクフルト宣言”時の様子
「走り抜ける者は走れ。忙しく歩く者は歩け。歩くのが嫌なら遊べ。追い払いはしない。しかし周囲の足を引っ張らず、じっとしていろ。なぜ先に行こうとする者の横で、向きを変えさせようとするのか」
「出勤時間のチェックはやめろ。家でもどこでも考えさえあればいい。わざわざ会社だけでやる必要もない。6ヶ月夜通しで働いて、6ヶ月遊んでもいい。遊んでいる社員という評価は下すな。遊ぶときはちゃんと遊べ」
「結局、自分が変わらなければならない。変わろうとするなら徹底的にやらなければならない。極端にいうと、妻と子ども以外は全て変えないといけない」
「不良はガンだ。サムスンが万が一間違いを犯したのなら、ガンも末期である可能性がある」
こういった発言から「管理のサムスン」とも言われるようになった。
21世紀は卓越した一人の天才が10万から20万人を食わせる時代
その後も危機感や変化に関する発言で注目を集めてきた。「中央日報」は「独特の鋭く、直接的な表現で語録を多く残した」としている。
「韓国の政治は4流、官僚と行政組織は3流、企業は2流だ」(1995年、韓国メディア北京特派員との歓談会にて)
「2~300年前は10万から20万人が群衆と王族を食わせていたが、21世紀は卓越した一人の天才が10万から20万人を食わせる時代だ」(2002年6月、人材戦略社長団のワークショップにて)
「中国が追いかけてきて、日本が先に行く状況で韓国経済はサンドイッチだ」(2007年1月、財界の集まりにて)
「傲慢にならず危機意識で再武装しないといけない。失敗を恐れない挑戦と革新、自立と創意が呼吸する“創造経営”を完成させなければならない」(2013年10月財界の集まりにて)
いっぽうで厳しさだけではなく、社員を考える姿勢を感じさせる言葉も残している。
「人材を育てるだけではダメだ。りんごの木を植えなくてはならない」
(2003年5月社長会の歓談後、記者団と顔を合わせて)
この”リンゴの木”の話は韓国メディアも死去に際し多く紹介した。「人がいるだけではなく、そこに仕事がなければならない」という意味で、これはもともと建設業などで成長してきたグループが半導体事業に大きくシフトチェンジ後、飛躍した背景にある哲学を表している。
交通事故で瀕死の経験、経営失敗、裏金疑惑も
もちろん、経営者としてのすべての日々が順風満帆だったわけではない。苦い経験もあった。「聯合ニュース」がこう紹介している。
「1982年にはソウル市内のヤンジェ大橋でのダンプトラックとの交通事故により九死に一生を得る出来事もあった」
また、2000年におよそ6年の操業期間で経営破綻したサムスン自動車(現在もルノーグループの一員「ルノーサムスン」としてブランド名が残る)での失敗は大きな汚点だった。
「李健熙の死去。”車と電子製品の区分は曖昧になっていく”と予見し、奔走したサムスン自動車…果たせなかった夢として残る」(朝鮮日報系列「朝鮮Biz」)
本人は学生時代から車の分解・改造を直接手掛けるほどのカーマニアだったが、1997年の外貨危機もあり、ついぞ成功は収めることができなかった。「電子製品の分野のようにやっていける」との自信はあったが、思う通りにはならなかった。「好きなことと儲けられることは別」という点を示唆している。
また2008年には裏金疑惑で厳しい捜査も受けた。「聯合ニュース」がこう伝えている。
「李会長は韓国で最も成功した企業人として派手なスポットライトを浴びながらも、各種の捜査による困難を経験した」
「弁護士の暴露により始まった『サムスン秘蔵金事件』により地検特捜部の捜査を受け、捜査チームにより背任の容疑で起訴されるや、2008年に自身の退陣と戦略企画室解体などを発表した」
JTBCは「”グローバルサムスン”を育てたが、政界との癒着の汚点も」と報じた。”品質第一”の精神を貫いたが、そのいっぽうで「自身の長男であるイ・ジェヨン副会長を後継に据えるための疑惑」「火種がくすぶり続けた政界との癒着疑惑」「労働者を無視し労働組合の組織を認めなかった」点を挙げ、「サムスン共和国(独立国のように好き放題にやってきた)という汚名を着せられたりもした」とした。
その後、2010年には会長職に復帰。スポーツ界でのより活発な活動を繰り広げた。
「平昌五輪誘致へのサポートを財界・スポーツ界の要請により単独指名された李会長は、2010年に経営の一線に復帰し、組織の再生とサムスンの新しい飛躍に貢献した」(聯合ニュース)。
しかし2014年5月に心筋梗塞で倒れ、一時は昏睡状態にまで陥った。意識は回復したものの6年間闘病生活は実らず、帰らぬ人となった。
古き時代の韓国のオーナーシップ、トップのリーダーシップを象徴する人物でもあった。批判も浴びたが、変化を恐れず結果で応えた経営者。「韓国経済」は「27年の間に会社の時価総額を350倍に、収益を34倍にした」とした。
故人の所有する株式の評価額は18兆ウォン(約1兆6700億円)、相続税は10兆ウォン(9兆2700億円)を超えると見られている。