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東京は「トウケイ」から「トキオ」「トウキョウ」へ 気象報告から見た読み方の変遷

饒村曜気象予報士
二重橋(写真:アフロ)

江戸から三京へ

慶応4年(1868年)7月に江戸を東京と改称する詔勅が発表され、江戸町奉行支配地域を管轄する東京府が設置されています。「京都」を中心に江戸を「東京」、大阪を「西京」とする三京を中心として近代日本を作ろうとする考えに基いた、大久保利通の建言によるものとされています。

そして、明治元年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇が江戸城に入り名称を東京城と改め皇居としたことで、名実ともに江戸から東京へ変わっています。

引用:

朕今万機を親裁し、億兆を綏撫(スイブ)す。江戸は東

国第一の大鎮、四方輻輳(フクソウ)地、よろしく親臨、

もってその政(マツリゴト)を視るべし。よって自今江戸

を称して東京(トウケイ)とせん。これ朕の海内(カイダイ)

一家、東西同視する所以なり。衆庶この意を体せよ。

出典:太政官日記(辰7月)に読み方を括弧で加筆

東京の発音

江戸を東京とする詔勅が出されましたが、発音については根拠となる法令がなく、まちまちでした。

漢字の主な読み方には、中国から伝えられた年代の古い順に呉音、漢音、唐音がありますが、日本語の読み方の多くは漢音です。次に多い呉音は、仏教用語や歴史の古い言葉に使われることが多いとされています。

東京は呉音でいえば、「とうきゃう」です。

漢音でいえば「とうけい」です。

明治36年(1903年)に国定国語教科書で、東京に振り仮名「トーキョー」がつくまでは、いろいろな読み方がされていました。

その変遷がわかる国の文書があります。それが内務省地理局の気象報告です。

東京の読みかたの変遷がかわる気象報告

明治8年(1875年)6月1日、内務省の地理寮量地課に気象掛ができ、東京府第2大区第4小区溜池葵町で気象(空中電気)と地震の観測を開始しています。これが、気象庁の前身です。

気象掛は、通称「東京気象台」と呼ばれ、4日後の6月5日からは、気候観測の目的で地上気象観測が始まっています。そして、内務省地理局は、明治8年(1875年)6月分の観測成果を定期的に気象報告という形で残しています。

この気象報告は、外国への提供も考えて、英語での記述もあります。そこには、観測をして取り纏めたのは、

「日本東京内務省地理局 IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN」

と記されています。

英語の直訳では、帝国東京気象台です。

つまり、内務省では東京を「トウケイ」と読んでいたわけです。

気象報告で、「TOKEI」という記述は、明治16年8月分までの気象報告まで続き、翌9月分からは、東京が「TOKIO」となっています。明治16年頃には、東京を「トキオ」と読んでいたことを示しています。

明治16年という年は、11月28日に大倉喜八郎によって鹿鳴館が作られているなど、井上馨外務卿らの明治政府は、制度、文物、習俗を欧風化して欧米諸国に日本の文明開化を認めさせ、条約改正を有利にしようとした鹿鳴館時代の幕明けの年でもあります。

真偽はわかりませんが、個人的には、東京の読み方の変遷は、本腰をいれて不平等条約の解消に取り組んだことを背景に、意識的にドイツ語的やフランス語的な発音に変えたのではないかと考えています。

「トウキョウ」が定着したのは大正時代になってから

日英同盟(明治35年1月)以後、イギリスとの絆が強くなっていますが、国定国語教科書で「トーキョー」と振り仮名がついたのは、英語的な発音を意識したのかもしれません。

気象報告で、東京を「TOKYO」と記すようになったのは大正2年になってからです。このことから、「トウキョウ」という呼び名が定着したのは、気象報告から、大正時代になってからということが推測できます。

当時の状況を逐次、忠実に記録してあるものは、その目的となる記録だけではく、当時の背景も伺い知ることができます。「気象報告」からわかる「東京の読み方」も、その一例です。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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