原子力規制における科学の名のもとの政治
原子力発電に関する安全基準の改定は、純粋に科学的知見の進歩や経験知の蓄積に基づくものなのか、それとも、政治的考慮の影響を免れないものなのか。今回は、原子力をめぐる科学と政治の微妙な関係について検討します。
原子力の利用については、科学と政治の微妙な関係というよりも、あからさまな関係というべきかもしれません。なにしろ、核兵器にしろ、原子力発電にしろ、全て政治の問題だからです。生命倫理も同様で、これらは、政治的決断による統制のもとでのみ、科学技術の利用が行われる分野です。原子力を電気事業に用いることの可否そのものが政治判断なのですから、原子力規制委員会の安全基準改定作業も、科学の名のもとの政治だと思われます。
科学的中立性の限界
いうまでもなく、東京電力福島第一原子力発電所の事故に基づく反省から、同様の事故を想定した対策の強化が図られるのは当然です。のみならず、全世界の原子力利用における新たなる経験や科学的知見の進歩に応じて、既存施設にも新しい高度な安全基準が適用されること(いわゆる「バックフィット」)もまた、当然すぎるほどに当然でしょう。確かに、このこと自体は、科学であり、政治ではない。
しかし、科学的知見に基づく安全基準の改定といえども、どの程度まで基準を厳格化するのかという判断は、純粋に客観的に決定されるとは限らず、そこには必ずや政治的考慮が働かざるを得ません。事故発生後の対策の技術的改良ならばまだしも、事故の原因となる天災地変の生起確率や、その天災地変が事故をもたらす可能性についての判断などは、科学的な判断のようにみえても、科学者間の合意の形成すら困難な場合も多く、最終判断は実は政治的なものになるほかないのです。
例えば、活断層の定義を変えるとしたら、地質学の進歩による新たなる科学的知見に基づくのではなくて、原子力施設を設置する際の立地の安全性に関する地質学的基準を政策的に変更するだけのことです。
政治的決断は不可欠
安全基準は、客観的な科学的知見の論理的適用によって自動的に決まるものではなく、最終的には、必ず人間の判断で決めねばならない。その判断は、言葉の本来の意味における政治です。政治というのが、本来の意味において、社会全体の利益の公正公平な均衡を考慮したうえでの良識に基づく最適な利害調整であるならば、原子力安全規制もまた政治なおです。
第一に、科学の知見自体が完全ではなく、また神ならぬ人間には完全もあり得ない以上、そこには科学者間の見解の相違が生じます。どの見解を採用するかについては、多数決以上には客観的方法などあり得ません。多数決こそ、代表的な政治の道具です。
第二に、絶対に安全という100%の保証などあり得ないことを考えると、安全基準とはいっても、純粋に科学的なものとして論理客観的に定まるものではあり得ず、どの程度の厳格さを求めるかは、誰かの判断(公権的な判断としての正当性は、第一には行政判断であり、最終的には司法判断でしょう)による適当(言葉の本来の意味での適切にして妥当)な裁定がなければ、決めようがありません。
これは社会の仕組みなのであって、どうともなりません。飛行機は墜落します。どのような安全基準のもとでも、必ず墜落します。しかし、社会は、航空輸送の必要性に基づいて、許容範囲の危険として墜落可能性を受け入れているのです。航空安全行政は、その社会の暗黙の前提のうえにのみ成り立っています。薬事行政における薬の効用と薬害の危険性との間の判断も同様です。
原子力の安全性についても同じです。どのような安全基準のもとでも、危険は完全にはなくなりません。この核心の事実を避けた議論は全て欺瞞だと思います。東京電力福島第一原子力発電所の事故は、国民のあいだの危険に対する心理的許容度を低下させました、これは明瞭でしょう。ですから、政府としては、それに対応した安全基準の引き上げを行うことが、政治的に不可避となったのです。この政治にこそ、原子力安全基準改定の本質があります。
政治的判断としての安全基準強化
要は、安全基準強化が最初から目的化しているわけで、技術論について科学的な検討が進められた最後には、どこまで強化したら原子力発電所再稼働についての国民の理解が得られるかという政治判断が待っているということです。
活断層の定義を例にとりましょう。安全基準の改定と称して活断層の定義の拡張を行うなどは、最初から定義を拡張することを前提にして、どこまで拡張するのが適当かという議論の構造になっているということなのです。
さて、ここに大きな問題があります。過去において活断層はないとされた立地の上に原子力発電所が建設され、今それが改めて定義の拡張により(あくまでも定義の拡張により)活断層があるとされたときには、当該発電所が廃炉にならざるを得ないとしても、それは科学的安全基準の客観的適用として、社会的に無条件で通用することといえるのでしょうか。むしろ、非科学の問題として、つまり政治の問題として、国民的議論の対象とすべきではないのでしょうか。
また、この廃炉による巨額な経済損失は、一体、何の対価なのでしょうか。科学的な意味における原子力発電の安全性の改善の対価か。それとも、国民の心理的満足を狙った政治的演出の対価か。もっとも、これは、単なる表現の問題にすぎないのかもしれません。耳聞こえのいいほうの表現、即ち前者を採用しておけば、それでいいのかもしれません。なにしろ、廃炉という決定は変わらないのだから。それでも、この経済損失は誰が負担すべきなのかという問題は残ります。
要は、本質的な問題は二つです。第一に、原子力規制委員会という立場で、科学の名のもとに、このように重大な帰結をもたらす決定ができるのか、あるいは、していいのか、ということ。第二に、仮に廃炉決定になったとき、その経済損失は誰が負担すべきなのかということ。そのような社会的負担を強いる決定が、科学の名のもとに行われていいのか。
科学の名のもとの無責任
ところが、原子力規制委員会としては、政治にかかわることについて、なかなかに積極的な判断は下しにいでしょう。現にそうであるように、活断層である可能性を否定できないというような、消極的な非決定の立場にならざるを得ない。そうすると、保守主義の原則が働いて、原子力発電所の設置を認めることは穏当ではないとの結論に達することは、容易に想像できることです。もしもそうなら、この非決定は、科学の名のもとの無責任ではないでしょうか。
まずは活断層の定義を拡張し、その拡張された定義を当て嵌めて判定を行うのでしょうが、定義の拡張の妥当性と、定義の当て嵌めの妥当性と、その両面における科学的な客観性などというものは、幻想ではないでしょうか。判定が黒であれ白であれ、必ずや無視し得ざる反論を招くものです。
事実、原子力に反対の科学者からも、原子力事業者からも、原子力規制委員会の見解に対する反論が起きています。原子力事業者の主張は全て自己利益誘導のための科学を無視した暴論だと誰にいえましょう。こうした反論の存在は、科学的に合意形成などできはしないことを証明しているだけです。
そのような反論の処理、合意できないことの決定こそが、責任ある政治です。責任ある政治判断を回避し、可能性を否定できないという非決定の消極姿勢を貫くならば、安直な保守主義に流れて無責任に陥ります。活断層であるとの認定は、科学者の良心に基づく積極的な責任ある判断としての認定でしょうか。それとも、活断層ではないと積極的に判断できないことに基づく消極的な非決定の無責任による認定でしょうか。
安全基準改定による原子力発電の巨額な費用増
1月30日の記者会見で、原子力規制委員会の田中委員長は次のように発言しています。「コストが幾らかかるかということについては、私は全く頭にありません。バックフィット対応で、そんなにお金をかけるならやめるという判断もあるかもしれません。浜岡の1、2号機は、中部電力がそういう判断をされたわけです。だから、そういうケースも出てくるかもしれませんけれども、そこは私どもの安全規制という観点からいうと、全く考慮しないということでよろしいかと思います」
中部電力は、2008年12月に、浜岡原子力発電所の1、2号機の運転終了を決定しています。理由は、「これまで耐震余裕を高める(耐震裕度向上工事)について検討してまいりましたが、工事には相当な費用と期間を要するとの結論に至り」、「工事を実施し運転を再開することは経済性に乏しいと判断される」というものです。この早期廃炉により、中部電力は、1536億円の特別損失を計上したのでした。
この損失は、中部電力の負担、即ち株主の負担となったのですが、それが正当化される背景もないわけではありませんでした。実は、新たに6号機の建設を行う計画(現在では、事実上の棚上げのようです)があったのです。つまり、効率的な電源構成へ向けた設備投資計画のなかでの総合的経営判断として、経済性の観点から廃炉決定されたわけです。
田中委員長は、この運転終了の決定に関して、中部電力の自主的な経営判断として、例証に引かれたのだと思います。確かに、この中部電力の判断は、株主の損失負担のもとで行う高度な経営判断として、合理的なものだったのでしょう。しかし、今回の安全基準改定は、全く趣旨の違うものではないでしょうか。経済的不可能を強いる安全基準の強化は、事実上の廃炉命令、更には脱原子力の政策決定ではないでしょうか。
そこから生じる費用は、早期廃炉費用に加えて、経済的に割高な電源構成になることから生じる原価の上昇など、巨額に達することは明白です。その費用は、誰が負担すべきか。連力会社(事実上、その株主)か、電気料金への転嫁を通じた利用者負担か、それとも政府が負担してくれるとでもいうのか。
大きな国民負担によって国民が得るもの
私は、電力会社負担はあり得ないと確信しています。なぜなら、経営の自主的判断によって招来した費用増だというのは表面的な偽装にすぎず、実質は、あくまでも原子力政策に起因する費用増加だからです。つまり、経営裁量外の費用増です。
こうした費用は、総括原価方式の枠組みのなかでは、電気料金へ反映されるべきものです。故に、電気料金の上昇による国民全体の負担になるほかないでしょう。そうでなければ、政府が補助金を投入するなり、廃炉になる原子力施設を買い上げるなりして、税金による国民全体の負担とするしかない。
その国民負担によって国民が得るものは何でしょうか。安全でしょうか。得られる安全と、その対価の負担との関係について、国民の了解は成立しているのでしょうか。了解がないなかで、田中委員長のように、「私どもの安全規制という観点からいうと、全く考慮しない」とかっこよくいい放つことは、科学の名のもとの無責任ではないでしょうか。
原子力規制員会という政治的中立を標榜する科学者を中核にした組織が、経済性について、「私どもの安全規制という観点からいうと、全く考慮しない」というのは、さも国民受けがしてかっこいいが、経済的に事実上の不可能を強いるような規制強化を行うことになったならば、それは、科学の名のもとにおける政治でなくて何であろう。もしも、政治を行うならば、正当な政治的手続きのもとで行うべきである。
実は、原子力規制委員会の政治的独立をめぐる議論は、そのまま中央銀行の独立性をめぐる議論に重なります。安倍首相は、国民生活に大きな影響を与える金融政策については、日本銀行の完全な独立などあり得ず、政府との協調は当然のこととするお考えです。ならば、原子力規制委員会の原子力政策についても、同様にお考えになるべきではないでしょうか。安倍首相が、原子力について積極的な発言を控えているのは、参議院選挙を前にした政治配慮かもしれませんが、一種の逃げではないでしょうか。