電気代1万円増、それでも続けた"区一番"の手製イルミネーション 25年の歴史に幕 取材NGだった理由
午後5時過ぎ、夕闇を照らす幾筋ものまばゆい光――。
JR中央線荻窪駅(東京都杉並区)から徒歩10分ほどの住宅街に一際目立つ家がある。「光る家」「ピカピカの家」「区内随一のホームイルミネーション」、呼び方は見る人それぞれで異なるが、四半世紀もの間、12月のクリスマスシーズンに合わせて外壁や庭、車庫など至る所がさまざまな電飾で彩られてきた。人知れず続けてきた林さん一家は引っ越しに伴い、今年を最後にこの恒例行事をやめてしまう。
道行く人の心を少しでも温めたいと電気料金の高騰下も自腹を切り、新型コロナウイルス感染拡大の状況下では中止しかけた「ホームイルミネーション」。
最初で最後になるかもしれないメディア取材に、林さんが思いの丈を語った。
それは1本の植木から始まった
「ママー、見てー」「きれいー」「あ、プーさんだ!」
その家の前を通る子どもたちは決まって歓声を上げた。
アンパンマンやドラえもん、ハローキティといった人気キャラクターのほか、雪だるまやつらら、流れ星など多彩な電飾が見る人の目を楽しませ、地域ではちょっとした"名所"だった。
住宅をきらびやかな電飾で彩る「ホームイルミネーション」は、山口県宇部市などの装飾が有名だ。
妻と長男の3人でこの家に住む林さんが、まだ中学生だった25年前の1998年ごろに始めた。毎年12月の第1土曜に点灯を始め、クリスマスの12月25日まで毎日午後5~9時、辺りを照らした。
毎年秋口からそわそわし出し、「11月になると大忙しで、休みの日は飾り付けでほぼ潰れます」と苦笑いする林さん。生まれも育ちもこの場所で、中学生のころ、敷地内にあった植木に電飾を施したのがホームイルミネーションにのめり込むきっかけだった。
もともと、地域の家電販売店、いわゆる「街の電気屋さん」を近所で経営していた祖父に影響を受け、物心がついたころから電子機器類に親しんでいた。跡を継いだ社長にも可愛がられ、電気系統や電気設備について詳しくなっていった。
小中学生のころ、テレビ番組でホームイルミネーションの存在を知った。横浜市のとある家庭のイルミネーションがテレビなどで取り上げられ、きらびやかな光に魅了され、「自分でもやってみたい」とそそられた。
興味津々な様子の林さんを社長が「じゃあ見に行くか」と、報じられていた横浜の住宅まで連れていってくれた。先例を参考にしながら、林さんは自己流で家を賑やかに飾り付けていった。
最初は植木1、2本から始まった電飾も、気づけば今は数えきれないほどの電球が煌々と輝く。千年紀だった2000年は大きく「2000」の文字の電飾を施すなど、その時々の話題を意識して飾り付け、電飾沼にはまっていった。電球は「1万はありそう」(林さん)で、ホームイルミネーションへの総投資額は数十万円では利かない。
12月は例年、林家の電気代が他の月に比べて跳ね上がる。1万円以上増えることもままあったという。特に近年は燃料価格の高騰に伴い電気料金が上昇していたが、「『きれいだね』と喜ぶ声が聞こえてくると嬉しくてやめられない」と25年間もの長きにわたって明かりを灯し続けた。
「きっとおじいさんの血だと思います」と電飾に心血を注ぐ林さんをそっと支えるのは妻のYさん。2010年代に結婚、男の子が生まれ、林さんの実家の隣地に新居を構えたのもその頃だった。新築の際、ホームイルミネーションをしやすい設計を組み込むことも忘れなかった。
電飾で彩られた我が家と父の実家に長男は目を輝かせた。毎年、恒例行事が終わるのをさみしがる一方、12月が近づくにつれて開始の日を指折り数えた。もっと喜ばせようと仕掛けは年々グレードアップしていく。今では小学4年になった長男のほうが積極的に準備する。長男の今年一番のお気に入りは点滅する流れ星のイルミネーション。
しかし、四半世紀に及んだイルミネーションは今年で幕切れとなる。
取材を断り続けたワケ
との張り紙が林さんの自宅にそっと掲示された。
東京の大動脈、環状8号線(環八)から少し入った住宅街に立地し、近くにあるスーパーの買い物客や散歩中の近隣住民らが頻繁に家の前を通る。通っては思わず足を止め、イルミネーションに見とれる。特にクリスマスのイブや当日は、一目見ようと人垣ができる日もあったほどだという。
25年の間にメディアから「取材させてほしい」との依頼もたびたびあったが、林さんはすべて断ってきた。他地域のホームイルミネーションがテレビや新聞で報じられて一気に話題となり、見物人が殺到して「迷惑だ」などと近隣から苦情が寄せられ、継続が難しくなったケースを聞いていたためだ。「続けられなくなったら、楽しみにしていた人たちの期待を裏切ってしまう」との思いから、取材を断り続けた。
林さんは「近所の方に迷惑が掛からぬよう、極力、細心の注意を払ってきました」と言い、25年間、クレームが来たことは一度もなかったそうだ。
何度か「今年はやめようか」とためらった年があった。1度目は東日本大震災が起きた2011年だ。催事などの自粛ムードに加え、福島第一原発事故に伴い節電が推奨される中、「果たして続けるべきなのだろうか」と直前まで悩んだ。ただ、「こういう時だからこそ、少しでも人々の暗い気持ちや社会のムードを、明るく照らす光で元気づけられたら……」と考え、敢行した。点灯時間は例年より短くし、電球も減らすなど配慮した。
新型コロナウイルス感染が拡大した2020年以降も、「三密」の誘因になりかねないとして中止しかけた。ただ、既に20年以上続け、毎年楽しみにしてくれている人がいることも踏まえ、2011年の時と同様、間引いてイルミネーションを灯した。1カ所に大勢が立ち止まらないよう、人気の飾り付け同士の距離を十分に取り、「ソーシャルディスタンス」を意識して電飾を配した。
迷った末の継続だったが、見物人から「きれいですね」などとお礼を言われると、気持ちが救われた。暗いニュースが多かったコロナ禍で、子どもに限らず、すさんだ気分の人や仕事帰りで疲れた人にもほっこりしてもらいたかったと林さんは説明する。
「きっと『なんでこんな時にまでイルミネーションなんてやっているんだ』と心中で不満だった方はいらっしゃったと思います。それでも苦情などがなかったことはひとえに地域の皆さまの協力があったから。感謝しかありません」と林さんは振り返る。
風物詩は消えても
惜しまれながら、最後の年のイルミネーションにいそしむ林さん。取材した12月下旬、「もうすぐ時間だよ」と午後5時少し前に長男が呼び掛ける。「まだ、あと5分」と林さんが返す。
律儀に午後5時まで待ち、5時きっかりに一斉に点灯。光が辺りを包む。
流れ星のライト、ミッキーマウスやドラえもん、手作りのランプのような電飾ーー。「これが25年前、最初に電飾をした木です」、「こっちのほう、道路からだと見えにくいんですが、力作なんです」と次々に案内する林さんの表情はどこか少年のようだった。
そうした電飾を毎日見ているはずの長男も、この日初めてホームイルミネーションを見たかのように笑顔が絶えない。「終わっちゃうのはさみしい」と少しうつむき気味の長男に、「でも引っ越した先でもきっと(ホームイルミネーション)できるから」と林さんは励ます。
地域の風物詩は1つ消えるが、これまでそれを目にしたことのある人の記憶はきっと長く残るだろう。鮮やかでまばゆい、優しさのこもった光の残影とともに――。
(注記の無い写真は筆者が12月下旬に撮影)