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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は家臣思いの良い武将だったのか。いくつかの事例から考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大河ドラマの中の明智光秀は心優しい人ぶるとして描かれているが、真相はいかに!?(提供:アフロ)

■明智光秀の性格とは

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、明智光秀が実に心優しい武将として描かれている。比叡山焼き討ちのシーンでは、女子供や僧侶を逃がしていた。

 最近では、光秀が家臣に怪我の具合を尋ねるなどしたから、家臣思いの武将だったとの説すらある。その指摘は正しいのか、考えることにしたい。

■革島氏への手紙

 天正元年(1573)における織田信長と足利義昭との戦いのなかで、明智光秀は出陣した革島氏に書状を送った。革島氏は山城国葛野郡革嶋南荘(京都市西京区川島)に本拠を置き、織田方に与していた。

 同年に推定される2月14日付の光秀書状は、革島忠宣に宛てたものである(「革嶋家文書」)。忠宣は2月13日の木戸(滋賀県大津市)表の戦いで数ヵ所の怪我を負いながらも、敵を討ち取った。光秀は忠宣の手柄を称えるとともに、怪我の養生に努めるよう申し伝えている。

 同じく同年に推定される2月24日付の光秀書状は、革島秀存に宛てたものである(「革嶋家文書」)。光秀は「未だに今堅田(滋賀県大津市)に敵が籠ってるが、近日中に落とせるだろうから、安心してください」と、秀存に述べている。

 また、「革島忠宣の手の怪我も良くなるように」と申し伝えている。光秀は「秀存の周囲で雑説(根拠のない噂)があり、心もとないだろう」と述べ、「御用があれば承る」と書状に書いている。未だに情勢が落ち着かないがゆえの配慮だろうか。

 同年4月28日、光秀は船大工の三郎左衛門に書状を送った(「渡文書」)。三郎左衛門は、船大工として坂本(滋賀県大津市)近辺に居住していたのだろう。

 光秀は一連の近江での戦いにおける、三郎左衛門の功を称え、屋地子(地代)、諸役、万雑公事(年貢以外のさまざまな夫役や雑税の総称)の免除を申し伝えている。

 このように光秀は、配下の者に怪我の具合を尋ねたり、養生を勧めたりし、さらに税などの免除をおこなった。ゆえに「光秀は良い人だった」ということになろう。

 しかし、当時の武将が配下の者に怪我の具合を尋ねたり、養生を勧めたりすることは、決して珍しいことではない。税の免除も同じだろう。ことさら「光秀は良い人だった」ということを強調する必要はない。

■戦死した家臣の扱い

 光秀が戦いで勝利したといっても、多くの家臣らが戦死するなど、決して人的な損失は免れなかった。討ち死にした配下の千秋輝季もその1人で、父の月斎は悲嘆に暮れるばかりだったという(『兼見卿記』)。

 同年5月14日、光秀は戦死した配下の者(18名)を弔うため、西教寺(滋賀県大津市)に戦死者1人につき1斗2升を寄進した。西教寺は、光秀ら明智一族の菩提寺でもある。

 この例もまた、光秀が家臣思いだったことの根拠とされるが、そんなに珍しいことではない。なぜ、そこまで強調されなくてはならないのか、理由がよくわからない。

■裏切った者の最期

 光秀は裏切った者や敵対勢力に対しては、厳しい態度で臨んだ。

 同年7月、光秀を裏切った山城の土豪・山本対馬守は、光秀から本拠の静原山(京都市左京区)に攻撃を受け、同年10月に討ち取られた。山本氏の首は、伊勢に在陣中だった信長のもとに送られたのである。

 同じく光秀を裏切った磯谷久次は、大和の吉野(奈良県吉野町)に潜伏していたが、天正6年(1578)に吉野の郷民によって殺害された。

 つまり、光秀は家臣や味方となった者には手厚い態度で接し、逆に裏切ったり、敵対した者には厳しい態度で臨んだ。こういう光秀の態度は、当時としては当たり前のことだった。そもそも「良い人」「悪い人」の線引きは困難で、そのような尺度で光秀を評価することには何の意味もない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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