名前を売って損をする 日本の不思議なネーミングライツの実態
1954年、奈良県内の1町5村が合併して「天理市」が誕生した。市名の由来は宗教法人の天理教だ。1959年には愛知県の挙母(ころも)市が豊田市に改名された。言わずと知れたトヨタ自動車の企業城下町だ。
天理教やトヨタ自動車が自治体の名前を買ったわけではないのだが、昨今の流行を先取りした動きかもしれない。1990年代後半から世界ではスポーツ、文化施設等の名称に企業名をつける「ネーミングライツ」の活用例が増えている。一方で安易で無計画な売却が増え、その弊害も目につく。
ネーミングライツが招く取り違え
2月2日、町田GIONスタジアムでジャパンラグビートップリーグの大一番が開催された。キヤノンイーグルスとパナソニックワイルドナイツの対戦で、アクセス良好とは言い難い陸上競技場に9,120人の観客が集まった。試合はパナソニックが51-17で勝利している。
試合の裏側で軽いトラブルが発生していた。町田市と隣接する相模原市には「相模原ギオンスタジアム(略称ギオンス)」があり、ラグビーの開催実績はこちらのほうが多い。町田GIONスタジアムは略称を「Gスタ」として取り違いを防ごうとしているが、間違いなく紛らわしい。実際に複数のメディアがギオンスへ向かってしまったと聞く。
サッカー界にもかつて「味の素トラップ」「味西トラップ」と俗称される取り違えの頻出例があった。東京都調布市にある味の素スタジアムのサブグラウンドはかつて「味の素スタジアム西競技場」が正式名称だった。北区にある国立西が丘サッカー場は命名権を味の素が取得したため、「味の素フィールド西が丘」に改まった。
両者の略称は「味スタ西」「味フィ西」と区別されていたが、どう考えても紛らわしい。現在は味スタ西にAGFフィールドという名がついたため、取り違えは減っている。
同じ公園なのに名前がバラバラ
逆に名前が違うから同じ場所と気づかないケースもある。昨年の秋、筆者は奈良県で面白い経験をした。
10月27日の予定を考えていて、まず高校野球の秋季近畿大会準々決勝が候補になった。会場は佐藤薬品スタジアムで、9時半開始の第一試合に「大阪桐蔭×明石商業」という注目カードが組まれていた。
もっとも近畿のベスト8なら、そのうち少なくとも6校は翌春の選抜大会で見られる。超満員の環境下で、4試合を見るつもりはなかった。
奈良県内で掛け持ちのできそうなスポーツの試合を探して、候補が二つ挙がった。JFL「奈良クラブ×FC今治」とB2「バンビシャス奈良×愛媛オレンジバイキングス」だ。サッカーは橿原公苑陸上競技場で13時開始、バスケはジェイテクトアリーナ奈良で15時開始だった。
アクセスを調べて驚いた。佐藤薬品スタジアム(奈良県立橿原公苑野球場)、橿原公苑陸上競技場、ジェイテクトアリーナ奈良(県立橿原公苑第1体育館)はすべて県立橿原公苑内にあり、隣接した立地だった。結果的に私はその3会場を移動し、3競技を取材した。
ブランドは誘客につながる
感じたことは「ポテンシャルの活かし損ない」「ブランドの無駄遣い」だ。橿原公苑の野球場、陸上競技場、体育館はいずれも老朽化していて、規模も手狭だった。京都の西京極総合運動公園、大阪の長居公園のように人が集まりそうな空気感はない。とはいえ橿原公苑は近鉄橿原神宮駅前駅から徒歩5分の好アクセスで、あべの橋や京都から一本で来られる。スポーツエリアとして最高レベルの立地だ。
一帯には橿原神宮という由緒ある大社があり、橿原考古学研究所附属博物館や飛鳥歴史公園もある。最近はよく「スポーツツーリズム」の言葉を目にするが、奈良や橿原はその対象となり得る地域だ。少なくとも施設名に橿原と入っているだけで、そこにあると県外の人にも伝わる。しかし「橿原隠し」で、来ようとする人を不必要に遠ざけている。県内のスポーツが盛んになるなら、クラブや施設に地名を入れて全国に奈良や橿原をアピールしたほうがむしろ自治体も得をするのではないか。
不特定多数が利用する施設、場所ならばネーミングは決定的に重要だ。例えば「甲子園球場」の5文字には形状、伝統など様々なニュアンスが込められている。「センター街」「竹下通り」といった固有名詞はその一帯のイメージと紐付いている。
その金額は見合っているのか?
名称を見聞きしたときにパッとイメージが浮かぶーー。それがブランドの力で、人々に足を運ばせる吸引力を働かせられる。その価値がいくらかを客観的に測ることは難しいが、ブランドには経済的価値がある。
命名権の売却で、自治体には相応の金額が入る。佐藤薬品は年間800万円、ジェイテクトは年間300万円を奈良県に支払っている。
ただし名前が変わればその球場、体育館の履歴が消えてしまう。バンビシャス奈良の熱心なブースターならば、名称がどうあろうとそこに足を運ぶだろう。しかしライトなファンや余所者の足は遠ざかるし、看板や地図を書き換えるコストも確実に発生する。
個人差はあるにせよ、人間の記憶容量は有限だ。固有名詞の記憶は得てしてアバウトで、似ている名詞があるとすぐ混同する。Jリーグの会場は「〇〇スタ」という略称があふれていて、さらに3年、5年といった頻度で名称が変わる例もある。J1からJ3までクラブ名ならしっかり頭に入っている私だが、スタジアムは名前を見てもどこにある、どんなスタジアムなのか浮かばないことが多い。
価値、収入を高める仕組みを
もっともネーミングライツの手法自体を否定するつもりはない。例えばアメリカでは巨額な契約も多く、権利を購入した側にメリットが出やすいスキームが取り入れられている。協賛企業が施設の運営に参加し、持っているリソースと結びつけてより高い価値を創出する仕組みを作れば、権利の価値も上がってくる。
日本国内にも限りなくネーミングライツ的な発想で行われて、成功を収めたプロジェクトが過去にある。それは阪神甲子園球場だ。阪神電鉄は武庫川の改良工事で生まれた広大な敷地を「甲子園」と名付け、行楽地や住宅地として開発をした。ホテル、遊園地と前後して1924年に設置されたのが甲子園球場だ。いわば街づくりの一環として球場を活用し、ブランドを企業の収益に結びつけた。
北海道日本ハムファイターズが2023年の開業を目指して建設を進めている北広島の新球場も、同じ狙いとなりそうだ。1月29日にネーミングライツパートナーとして不動産総合開発の「日本エスコン」が発表された。開業の3年前から「エスコンフィールドHOKKAIDO」という球場名と、年間5億円の契約金額が報道されている。
ネーミングライツ導入の背景には県や市の財政難もあるのだろう。費用対効果を考えてプラスならば、それをやる意味がある。一方で各自治体の導入例を見ると「施設と名前が紐付かなくなる」「認知度が下がって誘客効果が落ちる」といったデメリットが軽視されている。
「財政難をアピールしたい」「行政の頑張っている姿勢を見せたい」という裏の意図があるのかもしれない。しかし一般人の認知を混乱させ、潜在的な来訪者を減らす仕組みがいいとは思えない。
もしネーミングライツの手法を導入するのならば年間で少なくとも数千万円単位の収入が見込まれ、なおかつ中長期的に街やエリアの価値を上げるものに絞ってほしい。我々の乏しい記憶容量を無駄遣いさせる、無駄な検索を強いる不当な安売りと頻繁な改名はご勘弁願いたい。