二人の指揮者。殺されたウクライナ人と、西側から追放されたロシア人:戦争、民族、国と芸術家
ウクライナ人の指揮者ユーリ・ケルパテンコ氏が、ロシア兵に射殺された。
彼は、紛争開始以来占領されているウクライナ南部の都市ヘルソンで、自分の家にいたところ、「占領軍への協力を拒否した」ために、家の中でロシア兵に射殺されたという。AFP通信が報じた。
「残忍な殺害」は10月14日にはメディアで明らかになり、翌15日にはウクライナ文化省が理由を発表した。
「マスコミの報道によると、10月1日の国際音楽デーに際して、占領軍とその協力者であるフィルハーモニー管弦楽団が、ヘルソンで祝祭コンサートを計画していたとのことです」と情報筋は語る。
ロシア側は「このコンサートを、ヘルソンにおける、自称『平和な生活の回復』のデモンストレーションにしたかった」。しかし、指揮者であるユーリ・ケルパテンコ氏は「占領軍との協力をきっぱりと拒絶した」と同省は述べている。
2000年からヘルソン・フィルハーモニー管弦楽団に勤務し、2004年にはミコラ・クリッチの名を冠したヘルソン音楽・演劇劇場の首席指揮者を務めていたと、同省は発表している。
生まれ故郷のために働いた音楽家
ケルパテンコ氏は、1976年ヘルソン生まれ。享年46歳。
地元と共にある音楽家人生を歩んだ人物だ。
7歳から音楽を始め、中学時代は、アコーディオンのクラスにおり、音楽学校の生徒が参加する地域コンクールで何度も優勝を果たす。
1991年にへルソン音楽学校に入学し、在学中、民族楽器の演奏家による地方および国のコンクールで受賞を重ねた。
1995年に音楽学校のアコーディオン科を卒業し、作曲を学ぶ。
アコーディオン、ピアノ、民族楽器、室内楽のための作品を多数作曲し、これらは、ヘルソン国立大学の民族楽団、様々な民族楽器のアンサンブル、へルソン・フィルハーモニー室内楽団「ギレア」のレパートリーに含まれている。
同年、へルソンで開催された民族楽器の共和国コンクールで、第2位を受賞した。
2000年、チャイコフスキーの名を冠したキーウ国立音楽アカデミーのアコーディオン科を、2004年にはオペラ・交響楽指揮科を卒業した。
演奏、作曲、指揮と、多くの才能に恵まれた人なのだろう。
その後は、前述のように、生まれ故郷であるヘルソンの音楽・演劇劇場を中心に活躍をしていた。
2010年5月には、同劇場の劇団員とともに、フランス・パリ近郊のノジャン・シュル・マルヌ県で、「歩け、スラヴ!」というプログラムに、アコーディオン奏者として参加した。
ヘルソン地域は、かつてクリミア半島やザポリージャ地域と一緒に「タヴリダ」と呼ばれる、独自の歴史をもつ土地だった。
戦争が始まる前、ヘルソンに住み音楽を愛した人の中には、ロシア語話者やロシア人もいたはずだ。もちろんタタール人や他の人たちも。ヘルソン音楽・演劇劇場が彼らを排除していたとは、とても思えない。
しかし戦争で、ヘルソンは銃弾と砲撃に踏みにじられ、分断されてしまった。ケルパテンコ氏は、侵略者のプロパガンダの手先になるのを、拒絶して殺された。
国際的に派手なキャリアではないが、地元の伝統楽器を愛し、地元の芸術の発展に貢献するという、生まれ故郷のために働いた音楽家だった。
今後おそらくケルパテンコ氏は、多くの名誉をウクライナ国家から与えられるに違いない。
でも、いくら名誉を得ても、死んでしまっては・・・まだ46歳だったのに。指揮者ならば、あと20年以上活躍できたはずなのに。
ゲルギエフ氏、スウェーデンのアカデミーから追放
ウクライナの敵国ロシアに、もうひとり、戦争で人生が変わった指揮者がいる。
こちらは外国での大いなる名誉を、生存中に剥奪された人物だ。
今週10月13日、ロシアの指揮者ヴァレリー・ゲルギエフ氏が、スウェーデンの王立アカデミーから追放された。
10月13日、同アカデミーは「現在ウクライナを攻撃しているロシア政府と緊密に連携している」ことを理由に、スウェーデン王立音楽アカデミーから除名された、と発表した。
「私たちはこれを容認できないと考えており、アカデミーは関係をもちたくないのです」。
ゲルギエフ氏は、2011年から外国人名誉会員の地位にあった。
スウェーデン王立音楽アカデミーとは、ノーベル文学賞を授与するアカデミーと並んで、10機関あるスウェーデン王立アカデミーのうちの一つである。
ゲルギエフ氏は、プーチン大統領と親しいことで知られている。モスクワで生まれ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)でキャリアを築いた人物だ。
2014年のクリミア併合の際には、いち早く支持を表明し、ロシアの世論に影響を与えた。また、2012年の大統領選では、プーチン陣営のテレビCMにも登場し、支持を呼び掛けていたことは、広く知られているという。
ドイツのミュンヘン・フィルで主席指揮者を務めていたが、解任。フランス、イタリア、アメリカ、オランダなど、欧米のコンサートホールからすでに「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として扱われていた。
タス通信によると、彼は6月16日、サンクトペテルブルクで開かれた国際経済フォーラムで、以下のように発言したという。
「私の人生がとんでもない方向に向いた、ということはなく、できるだけ家で仕事をする覚悟があることがわかりました」
「私はマリインスキー劇場の責任者」であり、「マリインスキー劇場には多くの若手演奏家がいるが、その人たちに時間を割くことができるようになりました」という。
そして「私たちの歴史は、新しい可能性と新しい意味を持つ時代に入ったと思います。
<...> 私は、全世界がロシアに関連して議論していることや、決定されていることとは別に、ロシアが突然、ここで何が起こっているのかを本当に見る機会を得たことに気づきました。
この機会を最大限に活用し、地上での強さを保つだけでなく、何かとても大きなことをしなければなりません。
家で強くなれば、世界でも強くなれる。自分の地盤を強くしなければなりません」と説明した。
ウクライナ戦争については、彼はノーコメントで来ている。ミュンヘン・フィルは「プーチン大統領に対して、公に距離を置くように」という要請をしたのに、彼から返事がなかったため、解任した。
ちなみに、ボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者を務めるロシア人のトゥガン・ソヒエフ氏は、同じ状況に置かれて、まったく別の選択をした。
フランスのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督でもあった彼は、やはりウクライナ侵攻に対する態度表明を迫られた。
そして「最愛のロシアとフランスの音楽家たちのどちらかを選ぶという不可能な選択を迫られた」ために、ボリショイ劇場もトゥールーズのほうも、両方辞任した。
今年3月のことだった。
非民主主義国家の恩恵を受けた、大芸術家
ゲルギエフ氏は、1953年モスクワ生まれ。69歳で、プーチン大統領と同世代である。
殺されたケルパテンコ氏から見たら、若めの父親の世代である。
両親は、ジョージアとロシアの国境地域であるオセチア出身。3歳から19歳までを北オセチアの中心都市ウラジカフカスで過ごした。
両親がオセチア出身で、成人前の時代をオセチアで過ごし、妻にはオセット系の人を選んだのだから、彼はオセット人と言ってもいいだろう。
14歳のとき、父の死をきっかけに芸術家としての道を歩み始めた。レニングラード(現サンクトペテルブルク)のリムスキー=コルサコフ音楽院でピアノと指揮を学び、1977年にはカラヤンに注目された。
そしてキーロフ劇場(現マリインスキー劇場)のアシスタント指揮者として採用され、1988年にはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の音楽ディレクターに就任した。
それ以降の華やかな国際的活躍と栄誉の数々については、筆者が説明するまでもないに違いない。
彼の出身地域であるオセチアは、民族紛争が起きている地域である。
彼が育った北オセチアは、ソ連時代も崩壊後もずっとロシア領内の自治地域にあり、南に比べると安定していた。しかし、隣接している南オセチアは、紛争続きである。
オセット人とは、イラン系の遊牧民であるアラン人が起源と言われており、モンゴルの侵略によってコーカサス地方に移住したという。
グルジア王国の支配を受けてキリスト教に改宗したが、独自の文化を残しており、オセチア語を話す人たちである。
ロシア革命期の1918年には、オセット人は、支配者であるグルジア王国の地主貴族たちに反乱を起こし、民族紛争が起きていた。
その後、北はロシア内の北オセチア自治州、南はグルジア内の南オセチア自治州に分かれた。とはいえ、ロシアもグルジア(現ジョージア)も、一つの「ソビエト連邦」という国だったので、それなりに平和だった。
しかしソ連が崩壊すると、独立したグルジアは南オセチアの自治権を剥奪、92年に武力衝突が起きた。同年、ロシアの支援を受けている南オセチアは、国際社会には認められていない住民投票に基づき、グルジアからの独立を宣言した。
2008年、グルジアは南オセチアの支配権を取り戻すため、武力攻撃を開始した。しかし、南オセチアを支援するロシア軍の反撃が成功を収めた。とはいえ、南オセチアは国際的に承認された独立国とはいいがたい。
二分された朝鮮半島よりも複雑な北南の分断と紛争ーーオセット人と言えるゲルギエフ氏に、どのような政治思想の影響を与えたのだろうか。
(ちなみに、ボリショイ劇場を辞任した前述のトゥガン・ソヒエフ氏もオセット人である)。
あるいは、その後の名誉と富に満たされた人生のほうが、一層重要かもしれない。
2022年4月、反骨の反体制ジャーナリスト・アレクセイ・ナヴァルニー氏のチームが、マリインスキー劇場の若い才能を支援するはずの音楽家名義の慈善基金を通じて、ゲルギエフ氏が資金洗浄を行ったという調査結果を発表した。
慈善基金自体は、国営企業から4年間で約40億ルーブル(約3800億円)の寄付を受けている。ゲルギエフ氏はその口座を個人の財布として、レストランへの旅行、高級酒や葉巻、飛行機代、医者代、光熱費など、あらゆるものの支払いに使っているという。
ゲルギエフ氏は、外国にも1億ユーロ以上の資産を、多数所有しているという。
ニューヨークのリンカーン・センター近くのアパート、イタリアの8都市に農地、商業用地、ヴェネツィアの古い建物ーー大運河沿いの2つの宮殿(バルバリゴ宮殿と隣のムラ・モロジーニ宮殿の一部)などである。
しかし、これらの財産はすべてゲルギエフ氏の申告書に記載されていないというのだ。彼は劇場の責任者という公務員でありながら、2017年から資産報告書が公開されていないのだと、ナヴァルニー氏のチームは告発している。
今、若手の教育に本当に時間を割けるというのなら、ぜひきっちり3800億円分行ってほしい、というべきだろうか。
芸術と政治の問題
政治と芸術ーーこの問題をどのように咀嚼するべきだろうか。
以前の私なら「芸術と政治を混ぜてもいいのだろうか」と悩んだかもしれない。
でも今は違う。
人々は、才能ある有名な人々の生きざまを、よく見ているものだ。
戦時の今は、人々が良心に従って芸術家を非難し、疎外することがあってもいいのだと思う。
たとえ非難され排斥されても、40年以上経てば、もし芸術家に本物の才能があり、人々が同情できる隠されていた理由があったり、その難しい立場に理解を示したりできるような要素があれば、彼らは再評価を受けるだろう。
非難された出来事の当時に若かった芸術家なら、その後の生き方も人々は見ているだろう。
埋もれてそれっきり、ということはないだろう。
才能がある人に甘くなる気持ちは十分にわかる。美は人をひれ伏させる力をもっている。
でも、どんなに才能があるからといって、非人道的なことをして良いという理由にはならない。ルネサンスの時代の昔から、この人間の掟は変わっていない。
才能があるなら許されると思っているなら、それは思い上がりであると思う。