中露は軍事同盟国ではなく、ウクライナ戦争以降に関係後退していない
16日にプーチンが招集した軍事同盟CSTO首脳会談に中国が入っているはずがないし、中露間にも軍事同盟はなく、中国は(北朝鮮以外は)どの国とも軍事同盟を結んでいない。中国は軍事的に中立でNATO結束からも独立している。
◆プーチンが招集した軍事同盟CSTOと中国
5月16日、プーチン大統領はCSTO(Collective Security Treaty Organization)(集団安全保障条約機構)設立30周年記念にちなんで、関係国首脳をモスクワに呼んで会議を開いた。CSTOはソ連崩壊に伴って1992年5月15日に旧ソ連の構成共和国6ヵ国によって設立された軍事同盟で、設立時から今日に至るまで紆余曲折があるものの、現在のメンバー国は「ロシア、ベラルーシ、アルメニア、 カザフスタン、 キルギス、 タジキスタン」である。
中国と旧ソ連は、1950年代の後半から関係が険悪化し、1969年には中ソ国境にあるウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)で大規模な軍事衝突が発生し、中ソ国境紛争が始まった。一時は中ソ間で核戦争が勃発するかもしれないというほど険悪な状態になり、これが結果的に米中接近を促したと言っても過言ではないほど、中ソは仲が悪かった。
もちろん1989年5月、天安門事件が起きる寸前に、まだ「ソ連」だった頃のゴルバチョフ書記長が訪中し中ソ対立に終止符は打った。しかし1989年6月に起きた天安門事件で中国人民解放軍が民主を叫ぶ丸腰の若者たちに発砲して民主化運動を武力で鎮圧したことにより、ソ連崩壊後のロシアは、まだ「中国人民解放軍」に対して十分には警戒を緩めていなかった。
したがってCSTOは、ある意味、対中警戒的要素を持っているとも言える。
◆中露善隣友好協力条約が締結されたのはプーチンが大統領になってから
プーチンは、ロシア連邦の第二代大統領(2000年~2008年)と第四代大統領(2012年~現在)を務めているが、中国とロシアの間の「中露善隣友好協力条約」が締結されたのは、プーチン政権になったあとの2001年7月16日のことだ。
旧ソ連との間には1950年に中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれており、それは軍事同盟でもあれば経済協力に関する条約でもあったが、1980年に失効している。
ソ連崩壊後は上述の軍事同盟が旧ソ連の構成共和国の間で結ばれたくらいだから、中国との間の「中露善隣友好協力条約」に軍事同盟の要素があるはずがない。
日本では、「中露善隣友好協力条約」の第九条が事実上の防衛協定だという人もいるが、そういう事実はない。第九条には以下のように書いてあるだけだ。
第九条:締約国の一方が、平和が脅かされ、安全保障上の利益や締約国の一方に対する侵略的脅威を伴うと認識した場合は、双方は発生した脅威を排除するために、直ちに接触し、協議する。(九条ここまで)
「接触し協議する」すなわち「相談する」だけなので、防衛協定ではない。特に
第七条:締約国は、既存の協定に従い、国境地域の軍事分野における信頼を高め、軍事力を相互に削減するための措置をとる。 締約国は、それぞれの安全保障を強化し、地域及び国際安定を強化するため、軍事分野における信頼醸成策を拡大し、深化させる。締約国は、武器及び軍隊の合理的かつ十分な原則に基づき、自国の安全の確保に努める。関連する協定に基づく締約国間の軍事技術協力は、第三国を標的としていない。(七条ここまで)
となっており、「国境地域の軍事分野における信頼を高め、軍事力を相互に削減するための措置をとる」の部分は「昔のような国境紛争はやめましょうね」という、「中露両国は、もう互いに相手と戦争しませんよ」ということを謳っているくらいで、七条の文末にある「第三国を標的としていない」という言葉は、「中露は第三国に対して互いの国を守る軍事同盟は締結していませんよ」ということを意味している。
すなわち、「中露ともに、相手国のために連携して、第三国と戦うということはしない」ということなので、中露善隣友好協力条約は軍事同盟ではないことが明確に示されている。中露間に確実にあるのは戦略的パートナーシップで、習近平とプーチンの個人的な結びつきが強いということに依存している側面が大きい。
◆中国の秦剛駐米大使が米誌ナショナル・インタレストに「中露は同盟を結ばず」
今年4月18日に、駐アメリカの秦剛(しん・ごう)・中国大使が米誌ナショナル・インタレストに「ウクライナ危機以降」というタイトルの署名入り文章を発表した。その中で秦剛は以下のように書いている。
――ソ連解体後、アメリカと中国は1992年にそれぞれロシアのエリツィン大統領の訪問を受け入れ、「互いに(ロシアと)敵対しない」という関係を確立した。当時の米露と中露関係は、同じ地点に立っていたのだ。30年後、中露関係は大きく発展したが、「同盟も結ばなければ、対立もせず、第三者を標的としない」という性質に変化はない。中国はこれまでも、そしてこれからも、独立した大国であり、いかなる外部からの圧力を受けることもなく、事の善悪を自ら判断し、自ら自国の立場を決定していく。(引用ここまで)
この「同盟を結ばず(中国語で「不結盟」、英語では“non-alliance”)」という言葉だけを取り上げて、日本では「中露関係が後退し、遂に秦剛が、『中露は同盟国でない』と言った」と喜ぶメディアがあるが、上述した経緯を見れば、それが如何に的(まと)外れであるかが分かるだろう。
5月15日のコラム<ロシア苦戦で習近平の対ロシア戦略は変わったか?――元中国政府高官を直撃取材>にも書いたように、駐ウクライナの高玉生・元中国大使が「ロシアは惨敗する」と言ったことを、「中露関係が後退した」として鬼の首でも取ったように喜ぶジャーナリストがまだいるのは、中露の真相を理解していないためだろう。
◆気を付けた方がいいのは上海協力機構
前述の秦剛駐米大使は、同じナショナル・インタレストの中で、上海協力機構に関して、以下のように書いている。
――1996年、クリントン大統領がデトロイトでNATOの東方拡大のタイムテーブルを初めて発表した年、「中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン」の5ヵ国は上海で「国境地域における軍事分野における信頼強化に関する協定」に署名し、中国と旧ソ連諸国との国境問題を徹底して解決し、中ソ国境100万人兵士布陣の歴史に終止符を打ち、それを以て上海協力機構の礎(いしずえ)とし、相互信頼、相互利益、平等、協議、多様な文明の尊重、共通の発展の原則を確立し、「上海精神」の核を形成した。その結果、中国とロシア、中央アジア諸国との長期的な善隣関係と共通の平和を実現した。 歴史は、異なる選択が異なる「果実」を産むことをわれわれに教えてくれた。(引用ここまで)
この「上海精神」は、そもそも「NATOの東方拡大に反対」して誕生したようなものであり、そこに今ではインドが入っているということに目を向けなければならない。
インドが上海協力機構に入ったプロセスは、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の「習近平とモディ」による15回以上にわたる辛抱強い中印首脳会談の「果実」の一つなのである。
今月22日~24日の日程でバイデン大統領が来日し、日米豪印から成る「クワッド」による対中包囲網を、対露包囲網と絡めながら展開させていくようだが、その前に立ち止まって、「中露関係」と「中露印」3ヵ国の実態を把握していく必要があるのではないだろうか(「中露印」3ヵ国が描いている構想に関しては『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第六章で詳述した)。
◆EUともNATOとも対立構造にない中国
中国は北朝鮮と1961年に中朝友好協力相互援助条約という軍事条約を北朝鮮の要求により結ばされた以外は、どの国とも軍事条約を結んでいない。その北朝鮮との軍事条約も、実は中国にとって足枷であり、早くこの足枷から逃れたいと中国は思っている。
ただ、現在はアメリカの圧力からの緩衝地帯になっているので、それなりの役割を果たしてはいるが、中国は軍事的に危険な北朝鮮と運命を共にしたくないと思っているので、常に北朝鮮の暴走を抑えようとし、関係は微妙だ。
となると、ロシアと違い、中国は特にEUやNATOと対立する要素は少なく、アメリカがウイグル問題で中国を批判せよと迫ってきたので、その批判をして見せて、中欧投資協定を中断させてしまったが、EUが、「中国がロシアを制裁しない」という理由だけで、対中批判を強めることも考えにくい。
むしろ、ロシアを制裁することによって経済的に苦しい立場に追い込まれているEUは、いずれ「経済で結びつきを強めようとする中国」の存在が、ありがたくなる可能性が出てこないとも限らない。
もし、上海協力機構が「NATOの東方拡大に反対して」設立されたのだから、中国はロシアとともに、NATOと対立関係にあると主張すると、上海協力機構の正式メンバー国である「インド」はどうなるのかという矛盾とぶつかる。
そのことには「目をつぶって、真実を見ないようにしよう」というのが日本にはあるのではないのか。
日本国民は現実を正視し、バイデンの来日が方向づける日本の未来を、俯瞰的に注意深く読んでいく必要があるだろう。