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映画『アイアム・ア・コメディアン』村本大輔さんの軌跡には多くの問題を考えさせられる

篠田博之月刊『創』編集長
『アイアム・ア・コメディアン』C:2022DOCUMENTARY JAPAN.

 7月6日から東京・渋谷のユーロスペースほかで公開されている『アイアム・ア・コメディアン』は、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんに3年間密着したドキュメンタリー映画だ。毒舌とも言われる村本さんの話に笑いながら、しかし一方でいろいろなことを考えさせられる。制作したのは2021年放送の『村本大輔はなぜテレビから消えたのか?』というテレビ番組を作った日向史有監督だ。2019年から村本さんに密着してきた監督が、今回の映画で何をどう表現したのか、インタビューした。

 なお『アイアム・ア・コメディアン』公式サイトは下記だ。

https://www.iamacomedian.jp/

日向史有監督(筆者撮影)
日向史有監督(筆者撮影)

「モールス信号」という言葉をキーワードに

――冒頭、大都会を見下ろす映像が映しだされて、そこにモールス信号のようなものが描かれる。とても印象的なシーンですが、どういう思いを込められたのか、まずお話しいただけないでしょうか。

日向 映画の撮影を始めたのは、村本さんが、全国を回り独演会をしている最中から、コロナ禍で舞台とか劇場で独演会ができなくなっていく時期でした。最初、村本さんはオンラインは嫌だと言ってたんですが、オンラインでも独演会をやるようになって、やってみたら、人との繋がりって媒体じゃなくて自分の気持ち次第だなということに村本さんが気づいていくわけです。

 その時の象徴的な話として、宇宙からでもモールス信号でも、何かを伝えたいと思えば熱は伝わるんじゃないかみたいなことを言っていて、それを象徴するような映像を作りたいなというところから始まったのです。

 今回、ゲーリー・ビョンソク・カムという韓国のプロデューサーとタッグを組んでいるのですが、そのプロデューサーから、村本さんの話の中の「モールス信号」という言葉をキーワードに使ってみたらどうかというアイデアが出てきた。それを膨らませて映像のキーポイントにしていきました。

――映画のタイトルの出方も、I AM MEDIAという言葉が最初に出て、MEDIAがCOMEDIANに変わって「I AM A COMEDIAN」と表示されるわけですね。

日向 今回、SOMEONE’S GARDENというアートディレクションの人たちにも入ってもらっていて、彼らのアイデアです。「コメディアンという言葉の中にメディアという言葉が隠されてますよね、これちょっと強調してみましょう」ということでした。

『アイアム・ア・コメディアン』(C:2022DOCUMENTARY JAPAN.以下も)
『アイアム・ア・コメディアン』(C:2022DOCUMENTARY JAPAN.以下も)

『村本大輔はなぜテレビから消えたのか?』

――映画全体にメディアというものをどう考えるのかというテーマが含まれている気がしました。村本さんは2016年から数年間、ABEMATVの番組でコメンテーターを務め、社会のいろいろな問題に目を向けるようになったと言われてますね。私も相模原事件のテーマで番組に2度ほどゲストとして出たことがあるのですが、その頃から政権批判とか、差別などの問題について発言するようになり、次第にテレビから干されていったと言われていますね。

日向 私は、この映画の前に『村本大輔はなぜテレビから消えたのか?』というテレビ番組を作って、2021年にBS12(トゥエルビ)というところで放送しています。なかなかテレビで放送するのは難しいテーマでしたが、幾つかの賞もいただきました。

 その前には『東京クルド』というドキュメンタリー映画(2021年公開)、を作り、在日シリア人の難民を撮ったり、イラクに行ってクルド人自治区の兵士とかを取材したりしていたのですが、その過程でアメリカのスタンダップコメディアンであるマズ・ジョブラニのことを知ったのです。彼は9・11の後に広がったイスラム系移民に対するヘイトとか差別をネタにコメディをしているのですが、言葉とか文化の違いを憎しみじゃなくて笑いに変えているという点が胸に響いて、最初はその人を取材したいなとテレビ企画として始めたんです。その企画を練る過程で、2019年頃、アメリカのスタンダップコメディに関心を持っていた村本さんと出会ったわけです。

 村本さんとマズ・ジョブラニには共通点があって、固定概念やイメージ、大きな主語で語られる人たちっているじゃないですか。被災者だから我慢しろとか在日コリアンだからこうしろとか、男だからとか女だからという、そういう固定概念から個人を解放するというところが特徴です。

 村本さんのネタって毒があって個人的なネタだと思うんですね。全国を回って自分が出会った人から話を聞いて、それを笑いという表現に変えていくんです。例えば被災者に話を聞くと、援助物資はありがたいのだけれど、正直に言うともらっても困ってしまうようなものも送られてくる。その実際に聞いたランキングの話を笑いにするとかですね。

被災地を訪ねる村本さん(『アイアム・ア・コメディアン』)
被災地を訪ねる村本さん(『アイアム・ア・コメディアン』)

麻生太郎のネタで実名を出すか迷った

――今回の映画の冒頭では、村本さんのテレビの出演回数が激減していくという話が出てくるのですが、日向さんは、いったいどんな理由でそうなっていったと思われましたか?

日向 ABEMAの仕事で政治とか社会的問題に触れる過程で、村本さんは、それが面白いというふうに傾いていったのですね。その自分が面白いと思うことをネタにしていった時に、なかなかテレビでは扱いづらくなってきた。本人もそこに窮屈さを感じて、離れていったという感じですかね。

『村本大輔はなぜテレビから消えたのか?』という番組を作った時に、もちろんテレビ局にも取材を申し込んだのですが、断られました。権力を批判してるからといった明確な理由があるわけではなくて、何となく面倒くさそうだからやめようとか、「何となく」という空気がテレビの制作現場にあったんじゃないかと、あるテレビ番組制作者が言っていました。

 これは映画でも映しましたが、当時、村本さん自身も、例えばカットされたら困るからと、麻生太郎のネタを扱う時に、実名を出すか、「ある政治家」にしておこうかとか、すごく迷っていたんですね。結局最後は出すんですけど、どこに線引きがあるのかわからないまま勝手にこの線の手前で超えないようにしようという空気が、テレビの世界にはあるように思われたというわけです。

 村本さんは2018年の初めに『朝まで生テレビ!』に出たんですが、そこで尖閣諸島は中国にあげてしまえばいいとか、そういうことを言って炎上したんですね。弟が自衛隊員であることが大きかったりするんですが、もうひとつ原発問題も、生まれた故郷の福井県おおい町が原発マネーで潤っているみたいなことを多分、ずっと肌で感じてきた。そういう背景があってのことなんです。

『アイアム・ア・コメディアン』より
『アイアム・ア・コメディアン』より

アメリカへ行ってお笑いをやるという選択肢

――テレビに出なくなっていくのは、危ないテーマは避けようというテレビ局側の意識と村本さん自身の思いと両方あってそうなっていったということでしょうか?

日向 徐々に変わっていったんだと思います。テレビに出てくださいと言われても、あのネタやめてくださいみたいなことがあったりすると、やっぱり自分の面白いと思うお笑いをしたいという気持ちが出てくる。自由な笑いをやりたいという気持ちから、村本さんの方からも離れていった。その両面ですよね。

 村本さんは、その結果、劇場を選んだ。よしもとは全国に劇場がありますから、ウーマンラッシュアワーとしてそこにも出るし、自分で独演会をやるというのも、自分でスケジュールを組んで調整をしながら全国を回って自分の居場所を作っていくというプロセスだったのではないでしょうか。

――そういう時期に、アメリカへ行ってお笑いをやるという選択肢も出てくるわけですね。

日向 2017年にフジテレビの『THE MANZAI』で政治的なネタを披露したんですよね。その時に、視聴者からツイッターでジョージ・カーリンを見ているようだと言われて、ジョージ・カーリンについて調べてみたら、アメリカのスタンダップコメディアンなんですけど、こんなに哲学的で重層的で深いコメディが存在するのかと、衝撃を受けてアメリカを意識するようになっていったようです。

 その後、村本さんは2019年にニューヨークへ行って1カ月ほど滞在します。僕は『アイアム・ア・コメディアン』の石川朋子プロデューサーとも話して、アメリカに挑戦する村本さんも面白そうだから撮ろうよとなったのです。10日間くらい現地で撮影しました。これが撮影の始まりです。

 実際に撮ってみたらめちゃくちゃ面白くて、午前中に英会話教室に行って英語のネタを作って、タクシーに乗ればドライバーさん相手に自分のネタを披露するし、レストランに入ったらウェイターさん相手に披露する。ネタを思いついたら急に道端に座り込んでメモしだしたりとか、ひとりで公園でブツブツと英語のネタを試したり、夜はできたネタを「オープンマイク」というコメディアン同士のクラブで試し続けるとか、ずーっとコメディのことしか考えてない。その一途さとかエネルギーに惹かれました。

「オープンマイク」というのは、コメディアン同士が集まってネタ見せし合うみたいなところですが、村本さんは、そういうのを知人とかから聞いて、自分で探して回っていくのですね。村本さんはその後もアメリカに何回も行っており、今年1月からは移住しています。

 2019年の後には、韓国に行ったり、福島に行ったり、沖縄に行ったり……陸上自衛隊の基地のある宮古島とか、大阪の鶴橋とか、そういうところに通い、私たちも密着していきました。

――撮影スタッフは何人くらいですか?

日向 基本的に私一人かカメラマンとの2人体勢です。YouTubeもやりましたし、BS12もやったし、それで最後に映画という感じです。

 企画を通すのは簡単じゃなかったですね。BS12の番組も、そこのプロデューサーががんばってくれて、社内で根回ししてくれたので成立したのです。「BS12スペシャル」という報道ドキュメンタリーの枠でした。「テレビにおける表現の自由」というテーマはプロデューサーから提示されたもので、テレビという自分たちの媒体を問い直す番組をテレビで放送することに意義を感じてくださったということですね。幸い、番組は賞を4つほどいただきまして、良かったなと思いました。日本民間放送連盟賞テレビ報道部門優秀賞、映文連アワード審査員特別賞、衛星放送協会オリジナル番組アワードグランプリ、北海道のメディア・アンビシャス大賞、その4つですね。

 そういう評価を受けたことが今回の映画を作る励みになったのは確かです。ただそのテレビ番組と今回の映画とは、かなり内容が違います。

父親が他界した翌日にも独演会

――映画は村本さんに密着して、家族のところへ帰省する時にはそれを撮影するといったふうに進んでいくわけですね。

日向 村本さんと話していると、福井県のおおい町で過ごした17歳のときの孤独だったり、コンプレックスとか、あと両親に認めてもらいたいという気持ちだったりとかが必ず出てくるんですね。だから帰省する時は撮らせてくださいと事前に言ってありました。

 コロナ禍が少し落ち着いてきて、中止になっていた大独演会がもう1回開けるようになるのですが、映画の撮影の過程で、お父さまが他界してしまうのです。

 その連絡を私と石川プロデューサーがもらって、それで村本さんの予定を見たら次の日に独演会をやることになっていたのですね。独演会は予定通りやるというので、撮影させてもらえませんかとお願いしてカメラを持って会場に行きました。そこで村本さんはお父さまが亡くなる瞬間を独演の中で披露するのですね。

――ある意味、すごいシーンですよね。日向さんから見て、「村本大輔はなぜテレビから消えたのか?」という問いについてはどうお考えですか?

自らテレビから離れていった面も

日向 テレビから面倒くさがられてると思いつつも自分から離れていったという面もある。「テレビから消えた」というイメージも、村本さん自身、ある種周りがつけた宣伝文句みたいに思っているフシもあるんじゃないかなとは思います。

 村本さんがよく言ってるのは、もう自分が面白いと思うことが一番だということですね。例えばさきほど触れた、村本さんのネタで映画の中にもありますけど、「被災者のいらない支援物資ランキング」。村本さんも被災した人たちと会うまでは、かわいそうな人というイメージがあったと思うんですけど、酒を飲んで話すなかで、固定観念を裏切られたということでネタを作っていく。それを周りが聞くと「毒がある」と捉えるわけですが、それは「被災者」といった大きな集合じゃなくて村本さんが出会って話した個々人の話なので、すごくリアリティがあるということなんだと思います。

 一時期、あまりテレビに出なくなってからは、よしもとの劇場と独演会を合わせて年間600ステージと言われるほど行っていたのですが、今年の1月にアメリカに移住してしまいました。今後はアメリカで挑戦し続けたいと思ってるんだと思います。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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