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「賤ヶ岳の七本槍」のひとり糟屋武則とは、いったい何者なのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
朝日に染まる加古川の鉄橋。(写真:イメージマート)

 アイドルグループの中には、たまに影が薄いメンバーがいる。糟屋武則は「賤ヶ岳の七本槍」のひとりであるが、あまり知られていない影が薄い人物なので、取り上げることにしよう。

 糟屋武則に関する史料は乏しい。糟屋は「糟谷」、「糟屋」、「加須屋」などと書かれることがあり、辞典類では「加須屋真雄」という名で立項されていることもある。

 武則の父については諸説あり、生年は永禄5年(1562)説があるが確証はなく、没年は不詳である。もともと武則は三木城(兵庫県三木市)の別所氏の与力であり、天正5年(1577)10月以降の羽柴(豊臣)秀吉による中国計略に従っていた。

 翌年2月、別所氏が織田信長に叛旗を翻すと、武則は秀吉に従い、居城を提供した。以後、武則は三木合戦に出陣し、大いに軍功を挙げたといわれている。一説によると、武則は秀吉の小姓頭だったという。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、武則は秀吉のもとで中国大返しに従い、明智光秀を討つべく山崎の戦いに出陣した。敗れた光秀は、逃亡の途中で土民に討たれたのである。

 翌年4月の賤ヶ岳の戦い(秀吉と柴田勝家との戦い)で、武則は佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と槍を合わせ、見事に討ち取った。その軍功により、武則は秀吉から加古川郡内に2000石、河内郡内に1000石を与えられたのである。

 のちに武則は、「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・片桐且元・糟屋武則)のひとりに数えられたが、平野長泰と並び影が薄い。その後も武則は秀吉に従い、その天下統一を助けたのである。

 武則は文禄の役にも出陣し、三木郡にある秀吉の蔵入地(1万石)の代官に任じられ、さらに加古川城(兵庫県加古川市)主として12,000石を与えられたという。秀吉の没後は、形見として金10枚を下賜された。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、武則は西軍に与して戦った。なぜ西軍に与したのか、理由は判然としない。戦後、改易されたが、幕府に小禄で召し抱えられたとも伝わるが、没年は不明である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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