STAP細胞をめぐるNHKスペシャル BPO判断に問題はないのか?(2)
放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は2月10日、元・理化学研究所ユニットリーダーの小保方晴子氏からの申立を受けて審議をしていたNHKスペシャルに、名誉毀損による人権侵害があったとして、NHKに再発防止を求める勧告を行った。
問題となった番組は2014年7月27日に放送されたNHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」。委員会が問題ありとしたのは、取材の方法と番組の内容だ。コメントを求めようとした取材班が小保方氏を追い回したのが「問題あり」となった当然で、この点に関してはNHKも非を認めており、議論はない。NHKが「人権侵害はないと考える」と反論しているのは、番組の内容に関する委員会の判断で、そこには「視聴者がどのように受け止めるか」を「委員が推測したもの」という、二重に主観的なものが判断材料になっている問題を前回、指摘した。
今回は、争点となっている項目を考えたい。BPO放送人権委員会は、あくまでの人権侵害の有無を判断するところで、STAP研究について評価をするところではない。しかし、判断にはSTAP研究に対するある程度の知識は必要となる。委員会に誤解はなかったか、今回はそれを検討したい。
真実性・相当性があれば名誉毀損にはならない
争点となっている部分では、BPOの委員会は番組を見た視聴者が以下のように受け止めると判断した(少数意見として、以下とは異なる受け止め方をするとした委員もいる)。
a)STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高い
b)(共同研究者の)若山照彦氏および(STAP研究とは関わりのなかった理研の)遠藤高帆氏の解析によれば、小保方氏の作製したSTAP細胞はアクロシンGFPマウスから作製されたES細胞である可能性がある
c)STAP細胞は若山研究室の元留学生が作製し、小保方氏の研究室の冷凍庫に保管されていたES細胞に由来化する可能性がある
d)小保方氏は元留学生のES細胞を何らかの不正行為により入手し、混入してSTAP細胞を作製した疑惑がある
勧告書の12ページから、一部を改変
これらのうちとくにd)によって小保方氏の「社会的評価を低下させることを明らかである」(勧告書12ページ)が、上の項目が真実であるか(真実性)または真実と信じることについて相当の理由がある(相当性)ときには、名誉毀損の人権侵害にはならないとしている。
BPOの委員会は、a)とb)には真実性・相当性が認められるとしたが、c)とd)にはないと判断した(少数意見として、相当性があるとした委員もいる)。その判断は妥当だったのだろうか?
小保方氏の冷凍庫から見つかった元留学生のES細胞は、少なくとも残っているSTAP研究の試料には使われていなかった。つまり、「このES細胞を混入してSTAP細胞を作製した」というのに真実性は見つからない。だが、相当性はどうだろう?
2年以上も異なるとあるが……
勧告書を読むとBPOの委員会は、STAP研究が行われていた時期(2011年11月)と元留学生のES細胞が発見された時期(2014年2月)が2年以上も異なることを問題視していることがわかる(勧告書の11ページから12ページ)。「STAP研究から2年以上経過した時点における元留学生作製のES細胞の保管状況」という文言もある。
これは、2つの点で非常に奇妙だ。まず、元留学生のES細胞が小保方氏の冷凍庫にあると発覚したのは2014年2月だが、いつからあったのかはわからないという点だ。
もう1つは、STAP研究がいつ終わったのかを勧告書は考慮していない点だ。
問題のES細胞が作製されたのは2011年7月とされている。若山研がSTAP研究の舞台となった神戸の理研CDBから山梨大学に移転したのは2013年3月だから、この間のどこかの時点と考えて良いだろう。小保方氏が主張しているように、若山氏らが置き忘れていったものだとすると、2013年3月末ということになる。
2013年3月末にSTAP研究はどういう段階にあったか? 論文をまとめ上げて投稿したのが3月10日なので、その直後となる。
論文の投稿で、STAP研究は一区切り着いていたかというと、決してそんなことはない。結論から言うと、少なくとも2013年8月までは続いていたし、12月20日まではいつでも実験できる状態にあったと考える方が自然なのだ。そして、このことは問題のNHKスペシャルが放送される前から公になっていた情報だ。
どういうことなのか、説明しよう。投稿された論文は、雑誌の編集者が目を通した後、似た分野の専門家に回されて、掲載に値する論文かどうかをチェックされる。これを「査読」と読んでいる。査読者から「何々のデータがあった方が良い」と求められ、論文の著者がそれに応えて追加の実験をすることはよくある。こうした場合、追加の実験をして、その内容を加えた改訂版を出して、それがまた査読に回され……と、何回かのやり取りをする。そうして、ようやく「雑誌に掲載してもいい」という受理の判断が下りる。ある生命科学の研究者の言葉を借りれば、受理の連絡を受けるまではいつでも追加の実験ができるように「臨戦態勢でいる」という。
研究に一区切りがつくのは論文を投稿したタイミングではなく、受理されたときなのだ。STAP論文が受理されたのは2013年12月10日だ。
2年以上経過ではなく真っ最中
STAP論文の場合、3月10日の投稿後も追加の実験が行われている。確実にわかっている追加実験は、STAP細胞やその関連細胞の遺伝子解析で、理研CDB自己点検委員会が2014年6月12日に行った記者会見で2013年5月と8月に行われたと述べている。
そして、この2013年5月と8月に行われたとされる遺伝子解析のデータこそが、公開データベースに上げられものだ。遠藤氏はこの公開データベースの遺伝子配列情報から、STAP研究とは関係ないはずのアクロシンGFP遺伝子が入っていることを突き止めた。上の項目b)の「アクロシンGFPマウスからのES細胞」はまさにこれなのだ。
まとめると、以下のようになる
1)元留学生のES細胞は2013年3月末までには小保方氏の冷凍庫にあった可能性が高い。
2)アクロシンGFPマウスのES細胞が混入した実験は2013年5月か8月に行われた。
3)上の2)は放送日の1カ月半ほど前にはわかっていた情報である。
前述したように、BPOの委員会はSTAP研究が行われていた時期と元留学生のES細胞が発見された時期に、2年以上の差があることを問題視していた。だが、それはおかしいとわかるだろう。勧告書の12ページには「STAP研究から2年以上経過した時点における元留学生作製のES細胞の保管状況」という文言があり、STAP研究が2011年11月に終了したと考えていたようにも読めてしまう。そうであったとすればそれは明らかに事実誤認だ。
BPOの委員会は、「2011年11月の最初のキメラマウス実験の成功の時に、小保方氏の手元に元留学生のES細胞があったと考える根拠はなく、よって、これが混入したと考えることにも相当性はない」と考えたのかもしれない。だが、STAP実験は2011年11月のキメラマウス実験だけではない。STAP細胞には黒マウス由来、白マウス由来、両者の雑種由来の3種類が少なくともあった。このうち、黒マウス由来はほかの2つとは緑に光る遺伝子が異なり、すべてがES細胞の混入だとしたら、ES細胞にも少なくとも2種類あったことが示唆される。これも放送日の前に公開されていた情報だった。後で判明したことだが、実際には混入したES細胞もまた3種類あり、アクロシンGFPの入ったES細胞はそのうちの1つにすぎなかった。
こうした時系列やSTAP細胞には少なくとも3種類あったと事実は、放送日には公開された情報になっていた。だからといって、番組の視聴者がそのことを頭に入れていたなどとは、もちろん思っていない。だが、相当性を判断する委員会は、これらのことを頭に入れておくべきだろう。
(もっとも、NHKは小保方氏が「ES細胞のコンタミ(混入)ということが起こりえない状況を確保しておりました」と記者会見で言っていたにもかかわらず、来歴に謎のあるES細胞があったという、その保管状況の問題点を伝える目的で元留学生のES細胞を取り上げたと主張しているようだ。それでも話は同じだ。勧告書は「STAP研究から2年以上経過した時点の保管状況に疑問を呈する部分が放送されたのか、その主旨を理解するのが困難である」としているが、「STAP研究が行われている真っ最中」の保管状況を問題にしていたわけだ)
科学者に意見を求めたのか?
論文が投稿された後も、受理されるまでは追加の実験をするのはよくあることだ。このことは、現役の生命科学の研究者であればおそらく誰もが普通に知っているだろう。
BPOの勧告が出たあと、科学記者仲間や研究者の方々とこの話題になった。「委員会は、科学者にきちんとヒアリングをしたのか?」と複数の人が口にした。議事録や勧告書を読む限り、小保方氏とNHKにはヒアリングをしているが、研究者の意見を求めた形跡はない。