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大谷翔平を最もよく知るライターが語る「二刀流」のきっかけはケガの功名

横尾弘一野球ジャーナリスト
18日に3回目の先発が予定される大谷翔平が、二刀流に挑むきっかけとなったのは……(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 メジャー・リーグで1試合12奪三振に3試合連続本塁打と、投打とも最高のスタートを切った大谷翔平は、すでに「Sho Time」という愛称で呼ばれるなど、本場アメリカの野球ファンのハートも一気につかんだ。

 投手と野手の併用、すなわち「二刀流」にプロの世界で取り組むことについては、北海道日本ハムへ入団した時から賛否両論ある。「他の選手ができないことをやり遂げてしまうのが本物のプロ」というのが賛成派の見方なら、否定派も大谷のパフォーマンスを批判しているわけではなく、「投手、打者のどちらかに専念すれば、圧倒的な数字を叩き出せる可能性があるのに……」という意見が多い。

 つまり、二刀流が自分の野球観に合うか否かが論点であり、大谷のプレー自体には誰もが注目し、期待を寄せているのだ。では、大谷本人は、現在の自分をどう感じているのだろう。20年以上アマチュア野球を取材し、大谷も花巻東高に入学した当時から追いかけているライター・佐々木 亨氏に聞いた。

 春夏とも甲子園に出場し、春は準優勝、夏もベスト4入りの原動力となった菊池雄星が、ドラフト1位で華々しく埼玉西武へ入団した春、菊池が卒業した花巻東高を取材した佐々木氏は「雄星を超える素質の新入生がいました」と、大谷の第一印象を語った。ただ、その豊かな素質は投手としてのものであり、入学当初は打者・大谷にそれほど関心を抱いていなかったという。

「花巻東高の佐々木 洋監督は、選手一人ひとりの役割分担を明確にしてチームを作る。だから、大谷への期待も投手として。また、大谷自身も高校時代は投手としての成長を追い求めていました」

 佐々木氏がそう振り返る大谷“投手”は順調に力をつけ、2年夏の甲子園ではストレートが150キロをマークする。だが、大会前に左太ももを痛め、肉離れと思われたその故障が成長痛に起因する左股関節骨端線損傷だと判明すると、新チームとなった秋以降はマウンドに登ることができなかった。だが……佐々木氏は続ける。

故障で投げられなかった2年生のオフに打撃技術が磨かれた

「その間、大谷は体を大きくしようと食べに食べ、確か体重が90kgを超えたはずです。故障を完治させるには休養を取るしかありませんでしたが、できる練習には取り組もうと、打撃練習に力を入れた。この期間にバッティング技術が磨かれ、大谷の中でも打つことへの関心が深まった。二刀流のきっかけは、まさにケガの功名だったわけです」

 そうして、翌春の甲子園に四番ピッチャーで臨んだ大谷は、一回戦の第1打席で大阪桐蔭高の藤浪晋太郎(現・阪神)からライトへ本塁打を放ち、プロのスカウトに「投手と打者、どちらでも1位候補」と評される存在となる。

 そこからは、巡り合わせにも恵まれる。最高のレベルでプレーしたいと考えていた大谷はメジャー志望を表明するが、「プロで通用するとしたら投手だろう」と考えていたところに、投打とも自分の可能性を追求してはどうかと持ちかけた北海道日本ハムへ入団し、懸念する声もある中で投打ともにレベルアップさせ続ける。その実績があったからこそ、メジャー球団も二刀流での起用を認め、140年を超えるメジャー・リーグの歴史にも残る存在としてデビューを果たせたのである。

 さて、大谷の衝撃的なスタートダッシュは、このまま続くのか。それとも、この先に大きな苦難が待ち受けるのか。その興味を倍増させてくれるのが、佐々木氏が3月に上梓した『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』(扶桑社刊)である。大谷が「僕のこれまでが詰まった一冊です」と言うだけあり、大谷と佐々木氏の深い信頼関係の中で紡がれた内容は実に濃密。大谷のこれまでの歩みに触れながら、今日の大谷のパフォーマンスを追いかけるのも楽しそうだ。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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