ドッジボールはいじめなのか?
昨年6月、勝部元気氏がブログでドッジボール、学校での強制参加を禁止にするべきでは?という問いを発信した。
全員が参加する体育の授業におけるドッジボールで、運動能力の低い子どもが感じる恐怖心や、悪意のある児童・生徒が普段から気に入らない友達にボールを当てるということがあるのではないか、などとしている。
内田良氏もドッジボールをケガの実態から考えるという記事を発表している。ドッジボール ケガの実態から考える
アメリカにはドッジボールを禁止した学校が
米国では1990年代終わりごろから、校内でのドッジボールを禁止したり、体育の授業から外す学校が出てきている。
米国のドッジボールは、日本の学校で行われているドッジボールとは形式が異なるが、「敵のプレーヤーにボールを当てる」ことは同じ。そのため、勝部氏が発信した内容とほぼ同じように、米国の一部の学校でも「いじめにつながるのではないか」と懸念されているのだ。
2001年5月6日付のニューヨークタイムズ紙Increasingly, Schools Move To Restrict Dodgeballでは、テキサス州オースティンの学校区で、1999年より前から学校内でのドッジボールを禁止していたことを報じている。同紙ではこの学校区が「全米で初めてドッジボールを禁止した学校区かもしれない」とし、01年時点で全米のいくつかの州の複数の学校区でも校内でのドッジボールを禁止したり、制限たりしていることも伝えている。
オースティンのこの学校区のカリキュラム担当者はドッジボールの禁止について「私たちの周りで起こる全ての暴力やコロンバインの事件をふまえ、子どもたちをどのように教育するかについて注意深くあるべきだ」とコメントした。
コロンバインとは1999年4月にコロラド州のコロンバイン高校で生徒2人の銃乱射で13人が死亡した事件だ。
2013年にはニューハンプシャー州のウィンダム学校区が幼稚園年長から高校3年生までの体育の授業でドッジボールをすることを禁止して話題になった。School Board Axes Dodgeball Games from Curriculum
人間をターゲットにするドッジボールは、いじめをなくそうという学校教育の方針に合わないという理由だ。
人にボールを当てるドッジボールはいじめなのか?
中井久夫氏は『アリアドネからの糸』(中井久夫著・みすず書房)に収められている「いじめの政治学」のなかで、
としている。
仮に、ドッジボールで最初からボールに当てられる人がほぼ固定されている状態で、他の児童・生徒がその状況を悪用して、同じ人をターゲットに強いボールを投げるのであれば、いじめに相当すると言えるだろう。
しかし、ボールを当てられる人が固定されず、入れ替わるように、戦力が均衡するようにルールを工夫することはできる。
例えば、事前に遠投をし、一定の距離以上を投げる子どもは利き手と反対の手でボールを投げるようにしたり、肩から上は決して狙わないようにしたりする。ルールに反則した場合にはペナルティを与えるなどだ。
当たってもケガをしにくいやわらかいボールを使うことは、すでに多くの学校で取り入れられている。
体育の授業でドッジボールを教材として使う場合は、ドッジボールを通じてどのような身体感覚や運動能力が得られるのかという利益とともに、子どもがボールを怖がってドッジボール嫌いになるなどのリスクを想定して準備されるべきだろう。
銃乱射事件
ドッジボールは敵のプレーヤーにボールを当てることによって、敵の人数を減らしていくゲーム。米国では、それを、どこかで銃の乱射事件のイメージと結びつける人もいるようだ。だから、学校でのドッジボールを禁止するべきだと。
コネチカット州のサンディフック小学校で銃の悲惨な乱射事件があったのは、ニューハンプシャー州のウィンダム学区でドッジボールが禁止される数か月前のことだ。
ウィンダム学校区でのドッジボール禁止は委員会の投票により、賛成4反対1で決定した。唯一の反対票を投じた委員は「サンディフックの悲劇がドッジボールと同じ次元に置かれるのは、感情を害するものだ。比べられるものでさえない」と話していて、どこかで誰かが引き合いに出したことをほのめかしている。
これを、サンフランシスコのSFゲート紙電子ブログ版は「ニューハンプシャー州では、まだ、ドッジボールの購入の際に身分証明の提示は義務付けられていない」と皮肉まじりに書いた。HOT TOPICS N.H. school district bans dodgeball because of Sandy Hook
私の住む米国ミシガン州デトロイト郊外の、この学校区では学校でのドッジボールは禁止されていない。
私はこれを幸いなことと受け取っている。ドッジボールがいじめに使われないよう、参加者全員が楽しめるよう、ルールや用具を工夫することで対応できると考えているし、銃の襲撃事件のイメージとは無関係と思っているからだ。