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『海のはじまり』最終話で何も起こらなかったその理由

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Keizo Mori/アフロ)

『海のはじまり』は静かに終わった

(以下ドラマ『海のはじまり』の最終話までネタバレしているので気をつけてください)

『海のはじまり』は最終話も静かに展開して、静かに終わった。

ひょっとして最終話でなにか劇的な展開があるのかと、そういう予測も可能な予告篇が前週に流れていたが、変わらなかった。

そのまま淡々と進んでいく

主人公の夏(目黒蓮)は、娘の海(泉谷星奈)と二人で暮らしつづける。

別れた恋人(有村架純)と復縁はしない。

死んだ母親(古川琴音)が生き返ることはない。(それでは違う世界線の物語になってしまう)

物語は、先週まで進んでいた方向へそのまま淡々と進んでいった。

ラストシーンもファーストシーンも海

ラストシーンでは小さい海ちゃんと、若い父が海辺を歩く。

ファーストシーンととても似ている。

ドラマ冒頭は、小さい海ちゃんと、母が海辺を歩いていた。

母は死に、子供は少しだけ大きくなり、父に見守られて海辺を歩く。

世界は大きく連続して小さく断絶している

世界は続いている。でも少し変わっていく。

大きく連続している。小さくは断絶している。

人の世はそうやって続いていく。

テーマを言葉にしようとしてもダメ

無理に言葉にするなら、そういうことだろう。

ただ、これだけがテーマだったというわけではない。そのひとつでしかない。

このドラマが圧倒的に力を持っていたのは、言葉で説明しなかったからだ。

人であらわされる。

人は生きているだけで楽しいし、また、生きていると哀しみを抱えているというような風景を、いろんな角度から示してくれた。

それぞれがそれぞれ勝手に受け取るしかない。

人は死ぬ、だから生きる

テーマはだからひとつ言葉にまとめようとしてもうまくいかない。

人は死ぬ。

だから生きる。

たとえばそういうまとめかただってできるだろう。

でも、人は死ぬが、残された者はきちんと生きなければいけない、というようなことは、言葉できれいにまとめた瞬間に、映像が伝えてくれたものからどんどん離れていってしまう。

目黒蓮と有村架純と古川琴音と泉谷星奈が、それに大竹しのぶ、利重剛、林泰文、西田尚美、木戸大聖がそれを自然に示してくれていたところに意味があったのだ。

食べなきゃだめ

だからドラマのテーマというのは、しっかり見ていた人が、それぞれ見ていた位置から、それぞれ受け取ればいいのである。

「食べなきゃだめ、生きていかなきゃいけないから」とそこだけ切り取っても、それだっていいのだ。

そういうドラマであった。

『いちばんすきな花』と地続きの世界

そして2023年秋ドラマ『いちばんすきな花』と地続きの世界だったようだ。

11話で美容師役でいきなり今田美桜が出てきて驚いた。

有村架純と今田美桜が一緒に出ているシーンっていいよなあと、ぼんやり眺めていたが、落ち着いて振り返ると、それは『いちばんすきな花』の美容師さん(深雪夜々)が出てきていたということだ。

そのまわりにはゆくえさん(多部未華子)や椿くん(松下洸平)、紅葉(神尾楓珠)もいたことになる。

彼や彼女たちも、いろいろずっと悩みながら、しっかり生活していた。

ドラマはある時期だけを切り取ったものであり、彼女ら彼らの生活はいまもどこかで続いている、ということなのだろう。

ひとつの風景を描いていた『海のはじまり』

『海のはじまり』はひとつ風景を描いていただけだともいえる。

一人の、少し風変わりなお母さんが、小さい子を残して、若くして死んだ。

その風景である。

それが周りに与えた影響とゆっくり変化していくさまを描いていた。

きちんと変化を描き、そこに脅すような描写がないので、何も起こっていないような錯覚をもってしまう。

そういう錯覚を抱かせる素晴らしいドラマであった。

歩道橋で聞こえたママの声

細かいシーンがいくつもいくつも心に残っている。

敢えてひとつだけ挙げるなら、歩道橋のママの声のシーン。

11話で、海ちゃんが歩道橋の上からぼんやり自動車の流れを見ていたとき「うみー!」と呼ぶママ(古川琴音)の声が聞こえた。

もういないはずのママの声だ。

海ちゃんは驚いてまわりをみまわす。

どこにも見あたらない。

でも、いま、きちんとママが呼んだのが聞こえた。

小学生くらいの子供には、いろんな不思議なものが聞こえてくる。

そのことを、まざまざとおもいだした。

ヨリが戻るかもという希望的予測

最終話では、ひょっとして劇的な展開があるのかという予想は、たとえば夏と弥生(目黒蓮と有村架純)のヨリが戻るのではないかという希望的予測であった。

でもこのタイプのドラマでは、そんなどんでん返しは起こらない。

すでに動き出した世界は、逆にはまわらない。

だから『海のはじまり』の最終話では何も起こらなかった。

誠実に生きる世界

みんな、誠実に生きている。

誠実に生きる世界には、どんでん返しは起こらない。

自分のやったことだけ、きちんと返ってくる世界だからだ。

現実はどうあれ、このドラマ世界はそういう秩序で形作られている。

最後の海辺のシーンの意味するところ

最終話ラストシーンは、海辺のシーンであった。

小学1年の海ちゃんは、海のはじまりはどこかと問い、海のふちを歩きつつ、海には足を踏み入れない。

海がどこから始まっているかという問いは、それは地球の端っこはどこかと聞いているようなものであり、「生と死の端境」を探しているようなものであった。

子供はうしろで親が見ていてくれると信じられれば、海と陸の端境をどこまでも歩いていけるようだ。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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