『ひよっこ』誰もが優しいがゆえに残酷な世界。岡田惠和が描く究極の暴力とグロテスクなユートピア。
連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『ひよっこ』が佳境に入り、えげつない展開となっている。
奥茨城出身の谷田部みね子(有村架純)は、高校卒業後は家業を手伝い農家で働く予定だったのだが、東京で出稼ぎ労働者として働いていた父・実(沢村一樹)が行方不明となったことをきっかけに上京。実の行方を探しながらトランジスタラジオの製造工場がある向島電機で働くことになる。
向島電機の乙女寮、あかね荘、すずふり亭。様々なコミュニティを行き来することで仲間に恵まれ成長していくみね子は、やがて実と再会する。
しかし、実は記憶喪失となっており、女優の川本世津子(菅野美穂)とともに暮らしていた。
脚本を担当する岡田惠和は、2001年の『ちゅらさん』、2011年の『おひさま』に続いて朝ドラは三度目の登板。
岡田の脚本は、悪い人間が登場しない優しいユートピア(理想郷)を描いていると言われることが多い。
そんな岡田の作家性と、明るく前向きな世界観と物語が要求される朝ドラは実に相性が良い。とは言え、本当に岡田が描く世界がユートピアかと言うと、『ひよっこ』を見ている多くの視聴者は、そんな単純な話ではないと、答えるのではないかと思う。
『ひよっこ』は基本的には、悪意のない優しい井人々の楽しいやりとりが延々と続くドラマだが、細かく挟み込まれているのが、みね子より年配の人々が体験した戦争の記憶である。
インパール作戦に参戦した宗男おじさん(峯田和伸)の背中には、戦争で負った痛々しい傷がある。
乙女寮の舎監を務めていた永井愛子(和久井映見)は、婚約者を戦争で亡くしている。
すずふり亭の料理長・牧野省吾(佐々木蔵之介)は、職場で失敗した人を怒鳴るのは嫌だと言い、その理由として修業時代のレストランや軍隊で体験した辛い体験を語った。
すずふり亭の店主・牧野鈴子(宮本信子)は、「もはや戦後ではない」という言葉に憤りを見せており、「戦後どころか私の戦争は終わってないよ」と言う。
『おひさま』でも、満州に渡り、戦後、ボロボロになって返ってきた陽子(井上真央)の初恋の人・川原功一(金子ノブアキ)に「この国の連中は忘れすぎだよ」と言わせることで、戦後日本を謳歌し新しい時代を生きようとしていた陽子に冷や水を浴びせていたが、岡田惠和は優しい世界を描きながら、一方でその世界がいかに残酷で暴力的かを同時に描いている。
戦後の日本は敗戦の記憶を後ろめたく思いながらも、新しい時代へと希望を託し、少しずつ過去の記憶を忘れていった。そんな戦後復興の象徴となったのが1964年の東京オリンピックだったことは言うまでもない。
そして歴史は繰り返され、2011年の東日本大震災と福島での原発事故の記憶を乗り込めるための祭りとして2020年の東京オリンピックをこの国は反復することで震災の記憶と(戦後日本からの)脱却を図ろうとしている。
おそらく1960年代の東京オリンピックの時代を描くことで、2020年の東京オリンピックへと向かう現在の日本の空気を炙り出そうとしているのだろう。どれだけ明るく前向きな話に見えても、明るさの向こう側に、もやもやとした不穏な影が見え隠れするのが『ひよっこ』の巧みさだ。
「誰も悪くない優しい世界」だからこそ浮かび上がる究極の暴力
――岡田さんのドラマを観ていると、突然恐くなる瞬間があるんです。それはホラー映画的な恐さじゃなくて、もっと足元がグラグラする感じで。『夢のカリフォルニア』で、すごく印象に残っているシーンがあります。夫の元から逃げ出してしまった過去がある恵子(国仲涼子)が、起こられたり罵倒されたりすることを覚悟して、ファミリーレストランで働く元夫に会いに行くシーンなんですが、すごく優しくされるんですよね。でも、それがきっかけで恵子は壊れてしまう。この時に、なんで誰も悪くないのに、いちばん酷いことになってしまうんだろうと、ショックだったんです。
岡田 僕はその点において自分が山田太一さん的なものを引き継いでいるなと思うんですけど、つまり正論と正論の戦いにしか興味がないんですよ。聖と悪ではなくて、なんでみんなそれぞれ正しいのにこんな酷いことになるんだろうっていう感じがたぶん好きなんです。例えば『彼女たちの時代』において、平泉成さん演じる部長の言っていることは一〇〇%正論なのに、なんでこんなに辛いんだろうっていうふうに、あそこを嫌な奴にしてしまうのは簡単なんだけど、それには興味がないんですよね。とたんに自分の中ではペラペラになってしまう。だからひょっとしたら僕は作家になった時はかなりS体質なんだと思いますね。人が本当に言われて嫌なことはなんなんだろうとか、単にケンカをするとか罵倒されるとかではなくて、謝りに行って「いいよ」って言われた時がいちばん辛いよなっていうことがあるとか、本当に一〇〇%存在を否定するってどういう言葉なんだろうとかっていうことを考えるのが好きなんだろう思います(笑)。
―― とどめを刺される感じはありますね。
岡田 それは自分の中にある体質ですよね。僕は作劇的に穏やかで優しい作家って言われることが多いんですけど、実は全然違うのになって思ってるんです。身に纏っているものはそうかもしれないけど、だから自分の作っているものを自分で壊すという感じが、たぶん好きなんだと思いますね。
上記の岡田惠和の発言は「ユリイカ 2012年5月号 特集テレビドラマの脚本家たち」(青土社)で筆者が担当した岡田惠和インタビュー「カンヴァセーション・ピーシズ 岡田惠和の怖さとは何か」からの引用だ。
このインタビューで筆者が恐いと言ったことが『ひよっこ』でもっとも体現されていたのが、実が再登場する場面だろう。
多くの視聴者が予想していたとおり、実は記憶喪失となっていた。
大雨の中でベンチに座っていた実を見つけた川本世津子は、実に“雨男”と名前をつけて、自分の家に連れ込み二年間いっしょに暮らしていた。
そのことを知らされたみね子は母親に連絡して実を世津子の元から連れ帰ろうとする。
みね子の母・美代子(木村佳乃)と川本世津子が対面する場面は修羅場そのもので、楽しいユートピアを描いてきた『ひよっこ』が不倫モノに豹変したように感じた。
ちなみに『ひよっこ』のチーフ演出を担当している黒崎博は大ヒットした不倫ドラマ『セカンドバージン』(NHK)を手掛けている。
実の失踪が家族のために働くのが嫌になってのことだったり、好きな女が出来て逃げたのだったら、みね子(も視聴者)もまだ納得が行っただろう。しかし失踪した当事者に記憶がないのでは、気持ちをぶつけること自体ができない。
よくこんなにも暴力的なシチュエーションを思いついたものだと、感心する。
一方、記憶喪失の実と二年間も誰にも言わずに同居していた川本世津子の抱えていた孤独にもゾっとするものがある。
実が登場する前の週では、在庫処理をするかのように、登場人物の恋愛エピソードを登場させて一気に片付けていったのだが、そこで面白かったのは、永井愛子が料理長の牧野省吾に対して好意を持つ場面だ。
愛子の感情はアイドルやスポーツ選手にファンが抱く憧憬で、今風に言うと「推し」という奴だった。そのため本編ではコミカルに処理されていた。
愛子のエピソードと家柄の問題というある種古風な問題によって別れてしまうみね子と島谷純一郎(竹内涼真)の悲恋が同時に描かれていたが、今考えると興味深いのだが、その後に描かれた世津子が実に見せた愛情は、愛子の「推し」と似ているが、何かが決定的に違うような気がする。
幼い時から芸能界で女優という不特定多数の人間から寵愛を受ける仕事をしてきた世津子が唯一心を許したのが記憶喪失の中年男性だったと考えると、結構、恐い話である。
その後、記憶を失った実は、みね子の暮らすあかね荘で暮らした後、奥茨城に帰ることになる。
ドラマ上の演出は丁寧で実に感動的なものとして描かれている。しかし一方でなんとも言い難い気持ち悪さが残るのは、実が奥茨城の実家に戻ることに対して、誰も異論を挟まないからだろう。
どんなに奥茨木の人々が優しく振る舞っていても、記憶がない実にとっては他人に取り囲まれているのと同じ状態だ。むしろ、二年間いっしょにいた川本世津子の方が身近な存在だったと言えないだろうか? 記憶がなかったとはいえ、川本世津子との二年間の日々は、実にとってはそれなりに大切な時間だったのではないだろうかという視線が、本作では描かれていない。
グロテスクなユートピア
もう一つ思うのは、記憶をなくした男性を父として祭り上げようとする女たちのグロテスクさだ。
ここで言う記憶とは、本作で忘却されようとしている戦争の記憶の根底にある男の暴力性であることは言うまでもない。
岡田惠和は、今までの作風を自己破壊するかのように暴力性をむき出しにした『銭ゲバ』(日本テレビ系)以降、男の中に内在する暴力性をいかに去勢して、共同体の一員として包摂するのか。という物語を繰り返し描いている。その時に対になるのが、孤独な女性の存在だ。
『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系)では、かまぼこ工場で働く30代の女性・越前さん(麻生久美子)が、趣味で書いていた二次創作の漫画のキャラクターが漫画の中から出てきて、越前さんと恋に落ちるという不思議な恋愛ドラマだった。
『スターマン・この星の恋』(フジテレビ系)では、宇宙人の人格が憑依した記憶喪失の男・星男(福士蒼汰)を、二人の子どもを持つシングルマザーの女性・佐和子(広末涼子)が無理やり父親にしてしまう話だった。おそらく記憶喪失になった実(雨男)の造形ともっとも近いのは星男ではないかと思う。
ちなみに本作にはみね子を演じている有村架純も、宇宙人の存在を待ちわびながら地方都市のスーパーで働く女性・臼井祥子を演じている。ここではないどこかを求める祥子の姿はみね子とは真逆で、色々と想像力が刺激されるドラマだった。
『心がポキッとね』(フジテレビ系)は仕事のストレスと心身を病んで妻に暴力を振るいすべてを失った男・小島春太(阿部サダヲ)が暴力ストーカー女の葉山みやこ(水原希子)といっしょに神様と讃えられる優しい男・大竹心(藤木直人)の元で共同体を作っていく話で、なぜか春太が暴力を振るった元妻の鴨志田静が心と付き合っていると言う奇妙な話だった。
こういった過去作での試行錯誤の成果が『ひよっこ』にはソフトな形で持ち込まれているのだが、もっともグロテスクだったのは、『ひよっこ』のチーフ演出の黒崎博と岡田がタッグを組んだ『さよなら私』(NHK)だろう。
高校時代の同級生だった専業主婦の星野友美(永作博美)とキャリアウーマンの早川薫(石田ゆり子)が、大林宣彦監督の映画『転校生』のように人格が入れ替わってしまう導入部は、何かのコメディかと思ったが、友美の夫・洋介(藤木直人)と薫が浮気をしていたことから、ねじれた不倫モノとなっていき(薫の肉体に乗り移った友美は薫の肉体を通して洋介と肉体関係を持つ)、やがて友美と薫が夫をシェア(共有)していくような状態になっていく。
このあたりの描写は、誰もが優しい世界を突き詰めた結果、立ち現れる世界像として面白い。
万人に優しい理想の共同体を突き詰めると既存のモラルの範疇を超えてしまい、人間以外のものへの愛情や生殖行為、あるいは複数の異性との乱交状態をだらしなく肯定する世界へと突入してしまうというのは、SF的なグロテスクさと背徳感がある。
暴力性が去勢された男たちを神棚にあげて無害な父親として祭り上げようとする女たち。それが岡田惠和の描くユートピアの本質である。その時に男の主体性や自由にものを考える意思や権利がないがしろにされているように見えるのが気になるところである。
『ひよっこ』も、せめて、記憶が戻った上で実が家族のいる農村に戻るのか、川本世津子といっしょに暮らすのかを選択させるような場面があれば納得できるのだが、実と再会してからの展開を見ていると、一見選択肢を与えているように見えて、あらかじめ決められた運命に向かって強引に誘導されているかのように見える。これもまた、一つの暴力ではないだろうか。
とは言え、8月の第2週でここまで話を展開したということは、もう一山あるのだろう。
第114話の最後に映るベンチに座る川本世津子の思わせぶりな場面を見ていると、彼女の物語もこれで終わりとは思えない。
残り一か月半で岡田惠和が、何を描こうとしているのか、とても恐いが、それが逆に楽しみである。