春夏連覇より難易度は高い。センバツ連覇に挑む原田監督は「平安ファン」〜その1
いただいた年賀状には、昨年のセンバツの一場面がプリントしてある。しかしまぁ、優勝監督がアルプススタンド前で胴上げされるなんて、なかなかあることじゃない。
2014年センバツ、決勝。2点差の8回一死満塁、しかもツーボールという逆転の大ピンチを、大胆な投手交代で切り抜けた龍谷大平安は、結局6対2と履正社を下して初優勝を飾った。平安・原田英彦監督は、大会が始まる前からナインに告げていたらしい。もし優勝したら、アルプス前で21回胴上げしたってくれ。監督になって21年、教え子たちがいっぱいアルプスに来てくれるはずやから……。
そして、現に。原田監督は三塁側アルプス前で、選手に胴上げされたのだ。ただし、いまでもトレーニングで鍛えあげている隆々の体だけに、さすがに21回とはいかず3回だけだったが。そしてお立ち台では、こう言った。
「平安ファンとして、ホント、うれしく思います!」
内心はともかく、自らが率いるチームのファンと公言した監督も、前代未聞である。
「甲子園には出て当然」のはずが……
龍谷大平安といえば、高校球界の古豪中の古豪だ。そもそも、本願寺派寺院の子弟育成のため、1876年(明治9年)に創立された金亀教校がルーツ(当時は滋賀県彦根市にあった)。明治30年代には、西本願寺の僧侶を中心に金華野球倶楽部なるチームが編成されていたというから、08年(明治41年)に創部した平安の野球部と、なんらかの関係があったかもしれない。
1927年の夏に甲子園に初出場した平安は、そこからいきなり10季連続で出場し、戦前の夏だけで1回の優勝と3回の準優勝を記録した。戦後、京都の高校野球は“平安か、キョーショー(京都商・現京都学園、沢村栄治の出身校)か”の時代になる。たとえば昭和30〜40年代に限ると、京都からは春夏通じてのべ36校が甲子園に出ているが、そのうち平安と京都商で30を占める。
もっとも平安の優位は圧倒的で、その30回の甲子園出場のうち、平安の26回に対して、京都商は4回。平安ファンにとっては、京都で勝って甲子園に行くのは当然だったに違いない。そして、強い。51年夏には2度目の、56年夏には3度目の優勝を飾っている。以来74年まで、春夏通算の甲子園出場は、なんと55回にも及んだ。
ただそれ以後、甲子園がにわかに遠くなる。たとえば、74年の春夏出場を最後に、75〜94年までの20年間、平安の出場は春夏わずか1回ずつだけだ。“行って当然”のはずの舞台にこうも長い間おあずけを食わされていれば、熱心なファンにとって、可愛さあまって憎さ百倍である。原田監督は、自身の高校時代を振り返った。
「僕の在学中(76〜78年)も、一度も甲子園には行っていません。最後の夏はキョーショーに3回戦で負けたんですが、球場からの帰りしな、傘を振り回したファンがバスに乱入してきた(笑)。当時の監督さんは引きずりおろされ、ファンに責められて3時間ほど解放されませんでした」
原田自身が平安のファンだったから、そのあたりの心情はよくわかる。
初戦負けで「土下座せぇ!」
小学校時代から平安にあこがれ、中学時代には、平安の選手行きつけのスポーツ店で“平安が使こてるのと同じストッキングください”と、同じモノを購入しただけでうれしかった。学校の帰りには、よく練習見学に立ち寄った。
「74年の甲子園出場時のエースだった山根(一成)さんの練習ぶりを見て、“さすが平安のエースや”と感激しましたね。その山根さんが1年のとき、僕は西京極球場に応援に行ったんですが、京都商戦でリリーフに出て、ホームランを打たれて負けてしまったんです。試合のあと更衣室をのぞいていたら、山根さんが泣いとった。逆に京都商は、大喜びです。自分のことのように悔しくて、キョーショーが憎かったですね。だから、“土下座せえ!”ゆうファンの罵声の意味は、ようわかるんです」
土下座? 一体、どういうことか。それは95年、原田が監督になって2回目の夏にさかのぼる。
「初戦(2回戦●2対5南京都)で負けて球場から帰るとき、ファンにつかまったんです。“初戦負けとは、どういうこっちゃ。土下座せぇ!”いわれてね(笑)」
93年の秋に監督に就任して2回目の夏といえば、入学したばかりの1年生大型左腕・川口知哉(のちオリックス)をエースにしたときだ。この大胆な決断、成功すればいいが、失敗したら、古豪ゆえ相当な風当たりが予想される。そのひとつが、"土下座せぇ!"というファンの罵声だった。言い返したいことは、山ほどある。だが1年生を使ったのは自分の責任、罵声は甘んじて受けるしかない。原田はひたすら頭を下げながら、“クソったれ、絶対カタつけたる”と心に決めていた。(つづく)