【京都府長岡京市】賢くて美形だった細川ガラシャ 外国人宣教師が語る実像とは? 西国街道を歩く!
西国街道は、京都の東寺を出発点とした九州太宰府にいたる街道で、山陽道といわれていて、東寺から兵庫県西宮えびす神社までは「山崎」を通るので山崎道とも言われています。現在は国道171号線とほぼ並行して走っています。
この西国街道は、古代から日本の中心であった都と朝鮮半島との玄関口であった九州の大宰府とを結ぶ一番重要な幹線道路として発展してきました。江戸時代には本街道である大阪経由よりも距離が短いので、西国諸大名の参勤交代の道として多く利用されていたといいます。戦国時代に明智玉(後の細川ガラシャ)の細川忠興への輿入れ行列もここを通り、勝竜寺城に入ったと言われてます。
JR長岡京から西国街道に入り、少し歩いたところに、神足(こうたり)ふれあい町家があります。この旧石田家住宅は、江戸時代末期の建物で街道筋に店を構え、「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたといいます。表に出格子を並べ、白壁、虫籠窓(むしこまど)が特徴的。お玉(ガラシャ)輿入れの図を所有していて、11月のガラシャ祭を前後して飾られます。
店内では竹の子最中始め、乙訓地域のおみやげ類が販売されている他、町家特製蕎麦・うどん、町家あんみつ、ぜんざいなどの軽食やデザートを食べることもできます。フォークライブや町家音楽喫茶などの地元のイベント会場としても貸し出されています。
明智玉が生まれたのは永禄六年(1563年)のことであったといいます。玉は「生まれつき非常に探究心に富み、また優れた才媛」(ルイス・フロイスの書簡)「非常な理解力と聡明をそなえた人」(アントニオ・プレネスティノの書簡)「天性の国色、容貌の美麗比倫なく、精神活発、頴敏、果決、心情高尚にして才智卓越せり」(日本西教史)であったとどの文献も絶賛していますが、ヨイショの部分を差し引いても大変魅力的であったのは事実のようです。
また夫となった忠興も信長が「器量秀れ、その志は群を抜いている、今後は武門の統率者になるにちがいない」(綿考輯録)と光秀への書簡で語ったとあります。天正六年(1578年)、世は戦国時代、織田信長によって畿内がほぼ制圧され、明智光秀らは播磨・丹波攻略に奔走していました。そのさなか、信長の媒酌により、光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)は勝竜寺城主・細川忠興のもとに嫁ぎます。
現在は資料をもとに復元され、公園として整備されているこの勝竜寺城は、かつて空堀と土塁に囲まれ、鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術にもとづいて建てられていたと言います。石垣でつくる近世の城への移行間際のものとして、わが国の築城史上においても貴重なものであったそうです。
西国街道の一部、神足商店街から神足ふれあい町家を見学して、JR長岡京駅を横目にガラシャ通を通って、勝竜寺城へと足を運んでみませんか!
神足ふれあい町家 (外部リンク) 京都府長岡京市神足二丁目13-10 075-951-5175