【光る君へ】道隆の子・伊周は絶世のイケメンなのに「残念」な理由(家系図/相関図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長とのラブストーリーは最高潮!
先日、道長やその同僚イケメンたちに関する記事を書きました。(関連記事:「【光る君へ】平安最大の謎?紫式部と藤原道長、イケメンたち(公任・斉信・行成)はどんな関係?(家系図)」 2024年3月10日)
先週は新たなイケメンが藤原氏に加わりました。道長(演:柄本佑)の兄・道隆(演:井浦新)の嫡男で、三浦翔平さん演じる伊周(これちか)です。
この伊周という人物は、実際に「超絶イケメン」だったそうで、しかし非常に「残念な人」として歴史に名を遺しています。
花山天皇が退位して花山院となり、道長の姉・詮子(あきこ・演:吉田羊)の産んだ一条天皇が即位。道長の父・兼家は摂政となり、政治の力関係がガラッと変わりました。
今回は、新たな政治の力関係と、伊周のやらかしたアレコレについて解説(家系図付き)!
◆衣装に注目!黒から赤へ、袍(ほう)の色が持つ意味
◎道兼は実資の憧れた「公卿」に昇進
道長と同じ赤の袍を着ていた兄の道兼(演:玉置玲央)もついに黒の袍で登場。道兼は参議(四位)、いわゆる「公卿(くぎょう)=上達部(かんだちめ)」の仲間入りです。(次週の予告では道長も黒の袍を着ていましたね)
公卿とは、三位以上の高官、四位でも参議は公卿に含まれます。黒の袍は四位以上に許された色なのです。公卿といえば、数回前に藤原実資(さねすけ・演:ロバート秋山)が「わしが公卿であれば」と悔しがっていたのは記憶に新しいところ。
一条天皇の代となり、実資は蔵人の頭(頭の中将)の職を解かれてしまいました。しかも赤痢にかかり瀕死の状態!
まひろ(紫式部)の婿として名が挙がったものの、縁談を申し込みに行った宣孝(のぶたか・演:佐々木蔵之介)に「あれはダメだ」といわれてしまいます。(実資の方でも「鼻くそのような女との縁談あり」と日記に書いていて、こりゃダメだ)
有能な実資はこのままでは終わりません。なんと90歳まで生きるのです。今後もまだまだ秋山さんは活躍しますのでご安心を。
花山天皇の代には実資の叔父にあたる頼忠(演:橋爪淳)が関白でした。この人は公任(きんとう・演:町田啓太)の父(イケメン親子!)。天皇の外戚になれないまま「お飾りの太政大臣」であることに疲れて、引退を息子に告げましたね。
あのいつもカッコイイ公任の絶望的な表情が印象的でした。今までF4のトップをひた走っていた公任と道長が逆転する日も遠くはありません。
◆細分化する藤原一族。北家の中でも九条流が実権を握る
◎兼家一家への権力集中と摂関政治の隆盛
そんなわけで、ここでお約束の家系図をご紹介。どんどんエライことになってきております。パッと見ただけではつながりが頭に入りません。じーっくりご覧ください。
現在政治の実権を握っているのは、藤原北家の九条流です。もともと藤原不比等の息子たちから東西南北に分かれた中から発展した北家。その中でもさらに流れが細分化していきます。
花山天皇を退位させるために策略を練ったりしていましたが、これも北家九条流の中で起きている出来事。めちゃくちゃ狭い範囲の話なのですね。
ということで、次はいよいよ伊周について!
◆藤原伊周(これちか)ってどんな人?
◎藤原北家九条流の嫡流・道隆の嫡男にして美貌に恵まれた貴公子
道長は正室腹の三男。長兄が道隆、次兄が道兼です。(異母兄に道綱(演:上地雄輔))。伊周は長兄道隆の子なので、九条流の直系です。
道隆は豪胆な性格で、外見も優れていた、と伝わります。そんな道隆の子である伊周もやはり、非常に美男だったといわれています。女官たちからキャーキャー騒がれる「アイドル的な存在」。
その上学識も高く、和歌や楽器や舞もうまいと非の打ちどころのない貴公子。しかし、親の威光を笠に着て不遜な振る舞いが多かったといいます。
前例に従わず勝手に儀式のやり方を省略したり、大臣でもないのに「大臣にのみ許される席」に勝手に座り込んだり。上達部からは非常に評判が悪かったのだそう。う~ん、残念。
◎道長との関係・・・猛威を振るう流行り病で生き残った唯一のライバル
道長と伊周は血のつながった叔父と甥ですが、藤原氏のトップを争う最大のライバルでもありました。
995年(長徳元年)には赤斑瘡(はしか)が猛威を振るい、公卿上位8人のうち、6人までが3カ月ほどの間に亡くなってしまいました。
生き残った2人が内大臣の伊周と権大納言の道長だったのです。
道隆(死因は糖尿病)も右大臣の道兼も亡くなったため、2人は後継者争いをすることとなります。
関白である父の威光で、当時22歳だった伊周は、叔父で30歳の道長より上の位に就いていました。
しかし、道長には姉の詮子(一条天皇の母)という強力な味方がいました。「光る君へ」でも、物語の冒頭から詮子はずっと道長に異様に肩入れしています。それはこうした流れへの布石だったのですね。
◎花山院との関係・・・「長徳の政変」によって失脚
道長が伊周に勝った一番の理由は、なんといっても伊周が自分で事件を起こして自滅したことです。「長徳の政変」と呼ばれる事件の詳細は以前にも書きました。(関連記事:「【光る君へ】花山天皇の実像にせまる~歴史を変えた「女好き」(藤原氏系図)」)2024年2月12日)
「長徳の政変」簡単にいうと、伊周が弟の隆家(演:竜星涼)と一緒に起こした花山院襲撃事件。伊周は院に自分の恋人・三の君を取られたと思い込んでいたのですが、これが勘違いで、花山院の想い人は妹の四の君だったのです。
幸い花山院の命に別状はありませんでした。院はおびえて事を荒立てることはしなかったようです。しかし道長のところに報告に来る者が後を絶たなかったとか。もうこの時点で伊周は負けておりますね。
◎紫式部との関係・・・伊周は光源氏のモデルの一人?
伊周は大宰府(現在の福岡県太宰府)に流罪となりました(伊周は「大宰権帥」隆家は「出雲権守」を任ぜられた)。「絶世のイケメンが流罪になった」点で、伊周も光源氏のモデルの一人であるといわれています。
『紫式部日記』には、伊周は登場しませんが、弟の隆家は登場します。のちに許されて、紫式部が仕えた中宮彰子の出産祝いに出席した様子が描かれているのです。
世間では弟のほうが評価が高く、道長も隆家には一目置き、実資もかわいがっていたことが日記(小右記)に遺されています。隆家の姉である定子の産んだ敦康親王が帝位につき、隆家が補佐することを望む者もいたといいます。
◎清少納言との関係・・・「枕草子」を書いたきっかけは彼だった!
『枕草子』で清少納言は、伊周ほどの貴公子はいない!と絶賛しています。満開の桜にも劣らぬ美しさだと。男性で桜に例えられる人はなかなかいませんよね。
『枕草子』あとがきによれば、清少納言が『枕草子』を書くきっかけをつくったのは伊周だったようです。当時は非常に高価だった紙を伊周が定子に献上。
同席していた清少納言に定子が「おまえなら何を書く?」と尋ねると「枕ですね」と返答したとのこと。「それならおまえにあげましょう」と中宮より清少納言に下賜されたため、『枕草子』というタイトルになりました。
(いまだにこの「枕」が何を指すのかは諸説あり(「メモ」「枕詞」「寝具の枕」など)、不明なのだそう)
『枕草子』が書かれたころ、すでに道隆は亡くなり家は没落していました。当時お産は里帰りしておこなわれましたが、定子は出産する実家すらなかったのです。
伊周は「長徳の政変」のあと逃げ回って定子にかくまわれ、中宮大夫・平生昌などの密告で捕らえられてしまいます…ううう、どこまでもカッコ悪い!
伊周は許されて京に戻り、正二位・内大臣までのぼりますが、妹・定子の産んだ敦康親王が帝位につく望みが断たれると、失意のうちに37歳の若さで亡くなります。
道長の子や孫らが太政大臣を歴任するのに対して、伊周の子らは大臣までのぼることはありませんでした。
伊周がこんなに「残念な人」でなければ、中関白家(道隆の家系)はこんなに早く没落することはなかったかもしれません。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子編)(角川ソフィア文庫)
枕草子(角川書店編)(角川ソフィア文庫)