【光る君へ】平安最大の謎?紫式部と藤原道長、イケメンたち(公任・斉信・行成)はどんな関係?(家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長とのラブストーリー。
このドラマを見て、平安時代の文化や人々の営みが、がぜん身近になったように感じます。しかしながら「同じ藤原氏ばかりで紛らわしい」のも事実なので、ここでひとつ、整理をしてみたいと思います。
藤原道長・藤原公任(きんとう)・藤原斉信(ただのぶ)・藤原行成(ゆきなり)の4人(F4=藤原4)について、一番気になる「道長や紫式部との関係」について書いてみます。
現状のドラマ内では、道長以外の3人と紫式部との接点はほとんどありません。20年ほどのちに、紫式部が中宮彰子の女房として後宮に出仕すると、職務上彼らと関わるようになるのです。
打きゅう(ポロに似た球技)のあとに偶然立ち聞きした彼らの「女性の品定め」に心を痛めていた紫式部には、自分が将来華やかな後宮で彼らと顔を合わせるようになるとは、想像もできなかったでしょう。
最初に彼ら5人と紫式部の関係がよくわかる系図をご紹介します。
なんとなく関係を頭に入れて、最初は道長から順にまいりましょう。
藤原道長・・・演:柄本佑(たすく)
祖父は次男、父は三男、自身は五男に生まれても藤長者となった強運の持ち主
ご存じ、藤原氏・貴族・平安時代を代表する人物。特に有名なのが娘を次々と天皇の后にて絶大な権力を手にしたこと。三后と呼ばれる太皇太后(彰子)・皇太后(妍子)・皇后(威子)の3人すべてが道長の娘になったときに、道長が詠んだとされる和歌はよく知られています。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」
(この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。まるで望月(満月)のように欠けているところが何もない)
彼の日記『御堂関白記』はなんと彼の直筆のものが遺されており、現存する世界最古の直筆日記とされています。2013年、ユネスコ記憶遺産に登録。
大河ドラマ内の道長は、漢文をすらすら諳んじる公任をあっけに取られたように見たり、「漢文はあまり得意ではない」と言ったりしていますが、この日記もかなり誤字脱字があるとのこと。しかし実務能力を補って余りある豪爽な気性だったといわれます。
紫式部との関係…男女の関係にあったかどうかは平安時代最大の謎
『尊卑分脈』(室町時代初期に完成した系図)に紫式部を「御堂関白道長妾」と書かれていることから、男女の関係にあったともいわれます。
紫式部は彼の娘である中宮・彰子の女房(貴人に仕える女官)です。女房の中には主人の愛人(「召人(めしうど)」と呼ばれる)になる人も少なくありませんでした。紫式部のその一人だった可能性はありますが、実際のところはわかっていません。
『紫式部日記』には、道長に「(『源氏物語』のような恋愛小説の書き手なのだから)恋愛経験豊富なそなた、わたしとも一度どうだ?」と誘いをかけられてかわした話や、道長らしき人が訪ねてきても入れなかった話など、思わせぶりなエピソードがいくつも記されています。
式部のような女房(貴人の女官)の中には主人と関係を持つ女性もいました。しかし女房は「側室」にすらなれず、召人=とっても軽い「愛人」にしかなれなかったのです。
『紫式部日記』を読むと、紫式部は道長に魅力を感じていたようには読み取れます。しかし、『源氏物語』からは、紫式部は召人の身に自分を落とすことには抵抗があったようにも受け取れます。そのため、道長と軽々しく関係を持ちたくないと考えていたのかもしれません。
藤原公任(きんとう)・・・演:町田啓太
藤原北家嫡流・太政大臣の嫡子にして諸芸に達者な貴公子
祖父・実頼(さねより)も父・頼忠(よりただ)も関白・太政大臣。その長男である公任は間違いなく当代髄一の貴公子。藤原嫡流のサラブレッドです。
しかし、天皇の外戚となることは叶わず、この後権力は道長の家系(九条流)に移っていきます。姉の遵子(じゅんし/のぶこ)が円融天皇の中宮、妹の諟子(しし/まさこ/ただこ)も花山天皇の女御となるも、いずれも子ができなかったのです。
道長との関係・・・源氏と頭の中将のようなライバル関係?
祖父同士が兄弟のため「はとこ」にあたります。同じ年のため、お互いに意識していたとされ、『源氏物語』の源氏と頭の中将のようなライバル関係にあったと考えられます。現時点では、太政大臣の長男である公任は、右大臣の五男(ドラマ内では三男)である道長に出世で大きく差をつけています。
その上諸芸(漢詩・管絃・和歌)において優秀だったという公任。道長の父・兼家が「公任の才には我が子は遠く及ばない。公任の影すら踏むことができない」と嘆くと、兄の道隆や道兼は何も答えられませんでした。道長だけが「影など踏まず、顔を踏みつけてやる」と答えたと伝わります。道長の豪胆さが伝わる逸話です。
紫式部との関係・・・当代一の貴公子の残念な軽々しさを式部が暴く!
『紫式部日記』には、1008年、土御門殿で開催された敦成親王(後一条天皇)生後50日の祝いの席で、酔っぱらいの公卿(位の高い貴族)たちがやりたい放題だったという記述があります。そんな中、公任が「若紫はいませんか?」と女房たちのほうへ紫式部を探しに来たのです。
若紫とは『源氏物語』のヒロイン紫の上の少女時代の呼び名。ここから、紫式部が『源氏物語』の作者で、このころにはすでに上流貴族男性の間でも広く読まれていたと推測された重要な一文です。
しかし紫式部は聞き流し、「(酔っ払いだらけで)光源氏のような人もいないのに、若紫がいるはずもありません」と書き残しています。
すでに30歳後半にはなっていた式部は、立派な中年女性。
『源氏物語』を読んでくれているのはうれしいけれど、少女の呼び名(現代風にいえば「紫ちゃん」など?)で話しかけられてホイホイ顔を出したりできるか!と思っていたのかもしれません。
もしかすると、清少納言なら喜んで返事をして、うまく切り返したかもしれませんね。
藤原斉信(ただのぶ)・・・演:金田哲
優秀さで兄を押しのけ、立ち回りのうまさで順調に出世
大納言・藤原為光(のちに太政大臣)の次男。当初は兄の誠信(さねのぶ)が後継ぎとして出世しますが、徐々に無能さが露見。斉信は有能さを発揮して昇進で兄を追い抜き、名実ともに父の後継者となります。
花山天皇に寵愛を受けた女御・忯子(しし/よしこ・演:井上咲楽)は妹。ドラマでは、病床にある忯子に自分の昇進の力添えを頼む、やや自己中な面も描かれました。
忯子は花山天皇の子を身ごもったまま逝去し、天皇の外戚となることは叶いませんでした。
道長との関係・・・権力者を判断する嗅覚の鋭さは天下一品
父親同士が兄弟(父の為光は九男)の従兄弟同士。年齢は道長が一つ上です。とはいえ若き日の彼らの力関係からすると、太政大臣家の公任がダントツに上。斉信は右大臣家の五男である道長のことはライバルとも思っていなかったようです。
花山天皇の後ろ盾である藤原義懐(よしちか)の正室も斉信の妹。ドラマでは、義懐から天皇一派になるよう誘われますが、冷静に判断して「やっぱり道隆殿だな」と、藤原道隆(演:井浦新)方につくと発言しています。さらに道隆逝去後は道長に接近するなど、権力者にうまく取り入って生き残りを図りました。
紫式部との関係・・・中宮を盛り立てる「同士」として職務にまい進
一条天皇の代となり、彼が中宮大夫(だいぶ:中宮の公的なこと一切を取り仕切る役所の長)として道長の長女の中宮・藤原彰子の後宮に出入りするようになると、紫式部とも交流がはじまります。
彼は身分低い出自の女房の相手を好まかったといいます。しかし身分の高い女房は人前に出たがらないため、紫式部をやきもきさせています。
上で公任が「若紫はいませんか」と言っていた土御門殿での親王誕生祝の席では、彼は酔っ払ったりしていません。場の進行をうまく取り仕切り、仕事にまい進する姿が、紫式部によって記録されています。
藤原行成(ゆきなり)・・・演:渡辺大知
三蹟の一人に数えられる書の達人。父と祖父が早世し後ろ盾を失った苦労人
F4最年少でありながら、すでに祖父・藤原伊尹(これただ/これまさ)も父・義孝も亡くしており、4人の中で唯一強力な後ろ盾がありません。外祖父・源保光の庇護を受けて成長。
花山天皇の母は行成の伯母にあたるため、天皇とは従兄弟同士。花山天皇の在位は2年と短く、外戚の地位を失いますが、その後も立身出世を続けます。
当代一の能書家で、当時の政情や貴族の日常を詳細に記録した日記「権記」の作者としても知られます。
道長との関係・・・道長の困ったときの知恵袋として活躍
行成は道長の従兄の子です。祖父・藤原伊尹は道長の父・兼家の兄で、道長と父の義孝が従兄弟同士。伊尹は長男のため、本来は行成の家系が九条流の本家筋です。4人の中で一人だけ5歳ほど年下。
前述のとおり、彼は花山天皇の外戚ですが、大河ドラマではむしろ叔父である藤原義懐と距離を取り、花山天皇一派がつくられようとしていることを道長に告げます。賢明な彼は、花山天皇の世が長くないことを見抜き、春宮(皇太子:のちの一条天皇)の外戚である道長や道隆に恩を売ろうと考えたのかもしれません。
一条天皇の蔵人頭(くろうどのとう:天皇の秘書官の長)となり、道長の「知恵袋」として重要な働きをします。
道長の娘・彰子が立后(皇后になること)できたのも、彰子の子が立太子(皇太子になること)できたのも、行成の知恵のお陰。道長は感激してお礼を言い「子の代になっても恩に報いる」と述べたと「権記」に書かれています。
そんな道長とは深い縁で結ばれていたのか、同じ日(1028年1月3日:旧暦・万寿4年12月4日)に亡くなっています。しかし気の毒に、世間は道長の逝去に大騒ぎで、行成の死はあまり話題にならなかったのだそう。
清少納言との関係・・・定子サロンの常連だった行成は清少納言と恋愛関係だった?
行成は清少納言の仕えた、皇后定子のサロンの常連だったと伝わります。『枕草子』で清少納言は行成の才覚を絶賛しており、2人は御簾のうちで夜通し語らうほどの仲だったとか。ここから恋愛関係にあったのでは?と推測されていますが、本当のところはわかっていません。ちなみに年齢は、清少納言が6歳ほど年上です。
道隆・定子の家が没落すると、行成は上記のように道長・彰子のための尽力します。おそらく彰子のサロンにも顔を出したと考えられますが、紫式部と交流があったという記録は残されていないようです。
あらためて、系図を再掲
最初に載せた系図を再掲します。
もともと、藤原北家の嫡流は図の右側・藤原実頼(さねより)の系統(小野宮流)です。円融天皇の中宮・遵子は小野宮流の出ですが、子どもができませんでした。実頼も頼忠も天皇の外戚となることができず、実頼の弟の師輔の九条流に実権が移っていきます。
藤原道長の栄華は単純に「娘が次々と天皇の子を産んだだけ」と考えがちですが、実は一度「娘の産んだ子が天皇になる」というだけでも、かなりの幸運に恵まれた結果です。
・天皇と年齢が釣り合う娘がいる
・入内して天皇の寵愛を受ける
・懐妊する
・生まれた子が親王(男子)
・無事に出産(当時は出産で命を落とす人が多かった)
・ほかに身分の高い后の産んだ親王がいない
・孫が天皇になるまで、産んだ母も祖父も長生きして後見できる
これを六代続けた道長(図2)は、やはり驚異的な運の良さに恵まれた人といえるでしょう。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子)(角川ソフィア文庫)