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豊臣秀吉がキリスト教を禁止したのは、日本人が奴隷として売買されていたからだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 かつて、キリスト教弾圧の地「西坂の丘」で、日本人信徒20人と外国人宣教師6人が処刑された記事を拝見した。こちら。それは、豊臣秀吉がキリスト教を禁止したことによるものだった。秀吉がキリスト教を禁止したのは、日本人が奴隷として海外に売買されていたからだったので、その辺りを考えてみよう。

 16世紀になると、イエズス会は各地に宣教師を派遣したが、同時にポルトガルの商人も貿易を求めて海外に渡航した。東南アジアなどでは、ポルトガルの商人による人身売買が行われており、売買された人々は奴隷としてポルトガルに送られるか、転売されていた。キリスト教の布教と貿易はセットだった。

 秀吉の時代になると、日本人奴隷が船に積まれ、ヨーロッパに連行されるという悲劇的な事態が生じていた。そのことを記すのが、秀吉の御伽衆だった大村由己の手になる『九州御動座記』である。

 同書は、秀吉による九州征伐の際の行軍記録である。そこには、日本人奴隷の惨状を目の当たりにした秀吉の見解が述べられている。少し長いが、以下に関係する部分を挙げておきたい。

今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。

見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。

 冒頭部分では、日本で得た宝物(金・銀など)を船に積み込み、母国へ送った様子がうかがえる。また、数百人の日本人が男女に拠らず、ポルトガル商人に買い取られ、逃げられないように手足が鉄の鎖につながれ、船の底に押し込まれた様子がうかがえる。まさしく地獄絵図だった。

 そして、ポルトガル人は牛馬を買い取ると、生きたまま皮を剥いで、そのまま手でつかんで食べたという。ポルトガル人は親子兄弟の間にも礼儀がなく、さながら畜生道の光景だった。問題だったのは、近くの日本人がポルトガル人の姿(人道に外れた行為)を真似て、子、親、妻女を売り飛ばしたことである。

 このような阿鼻叫喚の地獄絵図を面前にすれば、誰もが眼を背けたくなるに違いない。秀吉は、特にその思いが強かったようである。こうして天正15年(1587)、秀吉は伴天連追放令を発布し、キリスト教の布教を制限することになった。同時に、日本人を売買しないように申し入れた。その一方で、秀吉は貿易の利益を得たいと考えており、板挟みになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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