【その後の「鎌倉殿の13人」】三浦氏が滅亡した宝治合戦とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。ドラマでは三浦氏が活躍したが、その三浦氏が滅亡した事件が宝治合戦だ。どんな事件だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
三浦氏は義澄、義村父子以来、鎌倉幕府の重鎮として仕えてきた。源家が三代(源頼朝、頼家、実朝)で絶えたあとも、三浦氏は執権の北条氏と円満な関係を築いていた。三浦泰村(義村の子)は、北条氏と姻戚関係を結んだのは、その好例といえよう。
たとえば、和田合戦において、義村は和田義盛に加勢するそぶりを見せたが、最終的には幕府に寝返った。承久の乱の際、義村は朝廷から味方になるよう誘われたが、断って幕府に味方したなどである。北条氏の執権の座が安泰だったのは、三浦氏の貢献も大きかった。
寛元4年(1246)、北条時頼が執権に就任した。すると、北条一族の名越光時は時頼から執権の座を奪うため、九条頼経を擁立して謀反を起こした(「宮騒動」)。実は、この一件には、泰村の子・光村が関与していたという。
その結果、三浦氏と北条氏の関係が悪化した。そこで、時頼は泰村の次男・駒石丸を養子に迎え、関係の改善を図ろうとしたのである。ところが、幕府の有力者の安達景盛は、両者の関係が良好になると、自分たちが不利になると考えた。
そこで、景盛はしきりに三浦氏を讒訴し、自らの立場を守ろうとした。宝治元年(1247)6月、ついに景盛は子の義景と孫の泰盛に対して、三浦邸を襲撃するよう命じた。襲撃された泰村は、これが時頼の命令によるものと考え応戦した。これが宝治合戦だ。
一報を受けた時頼は、幕府を北条実時に守らせると、北条時定に命じて三浦邸を襲撃させた。その結果、泰村・光村兄弟は北条氏に敗れ、頼朝の墓がある法華堂で一族郎党とともに自害して果てた。こうして、幕府創設以来の功臣だった三浦氏は、ついに滅亡したのである。
宝治合戦の根本史料は、ほぼ『吾妻鏡』のみである。したがって、事件の真相については不明な点が多々ある。しかし、この合戦で三浦氏を滅ぼした時頼は、北条氏の独裁体制をいっそう強固なものにしたのである。