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ブルースの名門アリゲイター・レコーズ総帥ブルース・イグラウアが語るギター・ヒーロー達【第2回】

山崎智之音楽ライター
Albert Collins & Bruce/Alligator Records

創立50周年を迎えたブルースの名門“アリゲイター・レコーズ”の総帥ブルース・イグラウアへのインタビュー第2回。

記事第1回ではレーベルの原点とハウンド・ドッグ・テイラー、ココ・テイラーについて語ってもらったが、第2回では“アリゲイター”の誇るギタリスト、アルバート・コリンズとジョニー・ウィンターについて訊いてみよう。

『Alligator Records — 50 Years of Genuine Houserockin’ Music』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)
『Alligator Records — 50 Years of Genuine Houserockin’ Music』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)

<キャリー・ベルはサイドマンになることを恐れていなかった>

●2007年の“ジャパン・ブルース・カーニバル”ではココ・テイラーと共にローリー・ベルも出演していました。

ローリーは“アリゲイター”からレコードを出したことはないけど友達なんだ。間接的に関わりのあるアーティストも多い。彼の父親のキャリー・ベルも私にとって特別な存在だった。彼は“デルマーク・レコーズ”から作品を出していて、“デルマーク”のボブ・ケスターがやっていたレコード店“ジャズ・レコード・マート”でよくレコードを物色していた。私は常連だったから、よく話すようになったんだ。彼は繊細でスウィートな人物だった。

●キャリー・ベルの音楽のどんなところが魅力でしたか?

キャリーは本能的なプレイヤーだった。独学でハーモニカを修得して、ユニークなスタイルを確立したんだ。誰にも似ていない個性を持っていながら、出しゃばり過ぎることなく、常にポイントを突いていたよ。彼はサイドマンになることを恐れていなかった。とにかく音楽そのものを良くすることを第一に考えていたんだ。キャリーは約1年マディ・ウォーターズと一緒にやっていたけど、もっと長くやっていたら、もっと注目を浴びていただろうね。それが残念だよ。キャリーはココ・テイラーの『Force Of Nature』(1993)にも参加していた。私がプロデューサーとして最も誇りにしているアルバムのひとつだ。キャリーの『Deep Down』(1995)を“アリゲイター”から出したけど、彼の最高傑作だね。

●キャリー・ベルとの交流で思い出はありますか?

当時のブルース・ミュージシャンは読み書きが出来ない人が少なくなかった。キャリーもギリギリ、自分の名前を書けた程度だった。当時は識字率が高くなかったし、仕方なかったんだ。ジェイムズ・コットンだって読み書きを出来なかったけど、記憶力が凄くて、1万曲ぐらいの歌詞をそらで覚えていたよ。メンフィス・スリムやアルバート・コリンズも記憶力は良かったね。

Albert Collins / photo by Paul Natkin
Albert Collins / photo by Paul Natkin

<アルバート・コリンズはライヴ一発録りが好きだった>

●アルバート・コリンズとの出会いについて教えて下さい。

“ジャズ・レコード・マート”でアルバイトをしていた頃、『ザ・クール・サウンズ・オブ・アルバート・コリンズ』(1965)というアルバムを聴いたんだ。アルバートのインストゥルメンタルを集めたアルバムで、本当に“クール”なギターがたくさん入っていた。それからずっとファンだったけど、彼が1974年ぐらいにシカゴに引っ越してきたんで、たまに話すようになった。それで彼のアルバムを“アリゲイター”から出すことにしたんだ。最初のアルバムが『アイス・ピッキン』(1978)だった。スタジオに入る前、彼は私と共同プロデューサーのディック・シャーマンに「アルバム1枚分の新曲を書いてくる」と言っていた。でも実際には2曲の断片しか持ってこなかったんだ。レコーディングの〆切があるし、我々は急遽アルバム用に既存の曲を探す必要があった。ディックは世界有数のブルース・コレクターだから、膨大な数の曲を知っていた。

●アルバートはどんなミュージシャンでしたか?

アルバートのギターはとてつもなくラウドだったけど、彼の声はあまりデカくはなかったのを覚えている。決して音域も広くなかったしね。でも彼のギターとヴォーカルには唯一無二のアイデンティティがあったし、ありったけのフィーリングが込められていた。彼は物語を語りながら、ユーモアを挟み込むことも出来たんだ。

●『アイス・ピッキン』の収録曲はどのようにして選んだのですか?

ディックのアイディアもあったし、私が提案した曲もあった。アルバートが知らなくて、スタジオで覚えた曲もあったけど、彼は独自のアレンジを加えていたよ。ローウェル・フルスンの「ハニー・ハッシュ」は私が提案したものだった。ローウェルのヴァージョンはシャッフルだったけど、アルバートは独自のグルーヴを加えて異なったアレンジにしたんだ。「トゥー・タイアード」も私が提案したけど、イントロでギターとオルガンが掛け合いをするアレンジはアルバートのものだった。アルバートとジョニー“ギター”ワトソンは同世代で、2人ともクラレンス“ゲイトマウス”ブラウンを崇拝していたという共通点があったんだ。ただ、アルバートはジョニーのことを人間として敬遠していた。初期のジョニーの音楽性が自分と共通するものがあると認めながら、「あいつは好きになれない」と話していた。テレキャスターで鋭角的に斬り込むスタイル、単音を何度も弾いてテンションを上げていくフレージングなど、ギター・プレイにも共通点があったんだよ。ジョニーは1970年代に音楽性を変えていって、あまり似なくなったけどね。まあ準備不足はあったけど、『アイス・ピッキン』は3日で完成して、大ヒットした。“アリゲイター”の名前を広めて、アルバートのキャリアを建て直すことになったんだ。

Albert Collins『Ice Pickin'』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)
Albert Collins『Ice Pickin'』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)

●あなたとアルバートの関係はどのようなものでしたか?

アルバートとはいつもジョークを飛ばし合っていたし、仕事の枠を超えた友人だったよ。彼とは何枚もアルバムを作ったし、ロバート・クレイ、ジョニー・コープランドとの共演アルバム『ショウダウン!』(1985)はグラミー賞を獲ったんだ。アルバートと契約したとき、彼には自分のバンドがなかった。メンバー達にギャラを出すことが出来なかったんだ。でも彼は“アリゲイター”で成功を収めて、ブルースを代表するミュージシャンの1人となった。“アリゲイター”からの最後のアルバムとなったのは『コールド・スナップ』(1986)だったんだ。ジミー・マグリフがオルガンを弾いていた。アルバートはあまりソングライティングが得意ではなかったから、ディックと私が曲を見つけてきて、その中から気に入ったものをレコーディングすることにした。アルバートは当時住んでいたラスヴェガスからシカゴまで夜間便の飛行機で飛んできて、すぐに「アイ・エイント・ドランク」「ベンディング・ライク・ア・ウィロウ・トゥリー」「トゥ・メニー・ダーティー・ディッシェズ」をリハーサルして、その足でスタジオに入ったんだ。アルバートはすべてをライヴで演奏したがった。一発録りが好きだったんだ。まあ、何度もスタジオに戻ってくるのが面倒だったこともあるんだろうけどね(苦笑)。アルバートはどんな曲でも、5分で自分のオリジナルのように魂を込めることが出来た。それは本能的なものだったんだ。彼は読み書きを出来たけど、歌詞を覚えるときは歌詞カードを見るのでなく、曲を聴きながら覚えていた。

●アルバート・コリンズとはライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ジャパン』(1983)をレコーディングしましたね(オリジナル邦題『フラッシュ・フローズン ザ・ブルース・ショウ!アルバート・コリンズ・ライブ』/1982年12月21日、東京・九段会館で収録)。

うん、私も一緒に日本に行ったんだ。ライヴをやった夜、一晩ですべてをミックスしたのを覚えているよ。ミキサーがまったく英語を話せなかったから、身振り手振りで指示したんだ。「もっと低音が欲しい」というときは床を指さしたり、「丸みのある音」を手で輪っかを作ったりね(笑)。当初は日本のユピテルレコードから日本市場のみでリリースされる予定が、内容が良かったんで、アメリカでも出すことにしたんだ。

●アルバートはゲイリー・ムーアの『スティル・ゴット・ザ・ブルース』(1990)で「トゥー・タイアード」を再演しましたが、そちらのヴァージョンは聴きましたか?

ミュージック・ビデオを見たよ。正直、ゲイリーのレコードを通して聴いたことはないんだ。でも彼が味わい深いプレイをするギタリストだということは知っている。決して音数が多くはなくても、説得力があったと思う。

●ゲイリーのブルース路線に対する批判として、しばしば“弾きまくり過ぎ”というものがありましたが...。

うーん、私が聴いた彼のプレイはそんな極端に音数が多いと思わなかったけど、たまたまそういうレコードを聴いたのかもね。私がギタリストの善し悪しを判断するのは、重要な音を弾くかどうかなんだ。ゲイリーのギターは音数が多くても、どれも必要な音だったよ。無駄に弾き過ぎることはなかったと思う。ミュージシャンにとって重要なのは、どの音が感情にインパクトを及ぼすかだ。私はギターもピアノも弾けないし、楽譜も読めない。でも音楽を感じることが出来るんだ。私が好きで、リリースしたいと考える音楽は、リスナーと感情を共有出来るものだ。

●なるほど。

“アリゲイター”から作品を出したことがないギタリストで私が一番好きなのはロニー・アールなんだ。彼はギターのフレーズに感情を込めることが最も重要だということを熟知している。“弾く”ことよりも、むしろ“弾かない”ことを重視するんだ。音と音の隙間に感情が込められているんだよ。ロニーは1音を弾いて、次の1音が来るまでの緊張あるいは緩和を感じさせるんだ。これまで何人かのミュージシャンに言ってきて、最近ではトロンゾ・キャノンに言ったことは、最高のブルース・ギター・ソロは、最高の司祭の説教を聞くようなものだということだ。とても静かなところから、とてつもなくラウドになる。そして同じフレーズを反復させながら、徐々にニュアンスを変化させていき、盛り上がっていくんだ。さらに司祭は、流れるように話していたのを一瞬ピタッと止めることで、聴衆の心を捉えることもある。ギターやピアノ、ハーモニカのソロを感動的なものにするのも、そんな“隙間”なんだよ。私は黒人教会で育ったわけではないけどね。それでも多くの人たちの葬式に出席してきて、いろんな司祭たちの話を聞いてきた。私は無神論者だけど、心を動かされたよ。

Johnny Winter / photo by Paul Natkin
Johnny Winter / photo by Paul Natkin

<ジョニー・ウィンターにはこだわりがあった。大変だったけどね(笑)>

●ジョニー・ウィンターとはどのようにして知り合ったのですか?

実は私は元々ジョニーのファンというわけではなかった。1970年代、彼はアリーナで大音量のロックンロールをぶちかますワイルドなギタリストだったからね。彼と初めて会ったのは1977年ぐらい、サン・シールズがニューヨークの“ボトム・ライン”でショーをやったときだった。バックステージに彼が来てくれたんだ。そのとき気がついたのは、我々が2人とも音楽ファンだということだった。彼は目を輝かせて「マディ・ウォーターズのアルバムをプロデュースしたんだ!」と話していたよ(『ハード・アゲイン』/1977)。ジョニーがシカゴに来て、私の家に泊まっていたとき、我が家にあるレコードを何枚も聴いていた。私のコレクションをすごく気に入っていたよ。まるで16歳の少年のようだった。それで1980年代の初め、彼のいた“ブルー・スカイ”レーベルが閉鎖することになったとき、“アリゲイター”に迎えることにしたんだ。ジョニーは1970年代にブルースとロックンロールの両方をやっていたけど、本格的にブルースをやりたくて、“アリゲイター”にアプローチをかけてきたんだ。ジョニーは“アリゲイター”史上初めて、過去にメインストリーム市場で成功を収めたアーティストで、フロントマンとしては初の白人だった。そういう意味で大きなチャレンジだったんだ。契約金も飛び抜けて高額だったしね。

●1969年、ジョニーが“コロムビア”からメジャー・デビューしたときのキャッチフレーズが“100万ドルのブルース・ギタリスト”でしたが...。

さすがに100万ドルは払わなかったよ(苦笑)。でもジョニーがミリオン・ダラー・ブルース・ギタリスト、千両役者だったのは事実だと思う。

●ジョニー・ウィンターとの関係はどのようなものでしたか?

ジョニーとは『ギター・スリンガー』(1984)『シリアス・ビジネス』(1985)『サード・ディグリー』(1986)という3枚のアルバムを出したんだ。でも彼とは最初から意識のズレがあったし、ずっと距離を感じていた。ジョニーは良い人だったけど、神経質なところがあって、残念ながら親しい友達になることが出来なかったんだ。ミックスのことやドラム・サウンドのことで、彼と私は意見が合わず、彼は私をもはや友人ではなく、単なるビジネス相手と見做すようになった。もっと彼の言い分を聞くべきだったかも知れないけど、今更言っても手遅れだよね。それともうひとつ、ジョニーにはドラッグの問題があった。それで活動がイレギュラーになったんだ。

●ジョニーがなかなか日本に来ることが出来なかったのは、ヘロインの治療薬だったメタドンそのものが麻薬扱いされていたというのが理由のひとつでした。

うん、ジョニーは当時からメタドンを投与されていた。彼は一晩中起きていて、朝になると寝て、夕方5時に起きるとメタドンを呑んで、午後8時頃になるとようやくレコーディングを出来る体調になった。それから3時間ぐらい、エネルギーに満ち溢れていた。その間、彼はずっとスクリュードライバーを飲んで、大麻を吸っていた。その後はプツンとバッテリーが切れて、急激にスロー・ペースになるんだよ。

Johnny Winter『Guitar Slinger』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)
Johnny Winter『Guitar Slinger』ジャケット(Alligator Records / 現在発売中)

●ジョニーとの作業にはどんな思い出がありますか?

アルバート・コリンズと同じように、ジョニーも事前に1曲も書かずにシカゴにやって来た。ただ彼の頭の中には、やりたい曲が幾つかあったんだ。彼は本能的なギタリストで、スタジオでは不機嫌で扱いづらいときもあった。それとアイディアを思いつくと、すぐにレコーディングしたがったんだ。『ギター・スリンガー』でクリフトン・シェニエの「マイ・ソウル」をレコーディングした。ジョニーと私は何度もオリジナルを聴いて、歌詞を聴き取ろうとしたんだ。数箇所、何と歌っているかまったく理解出来ない箇所があったけどね。2人でああでもないこうでもないと話すのは楽しかったよ。ジョニーはヘヴィなギター弦でこの曲を弾くと言い出した。午後10時ぐらいのことで、楽器店はもちろん開いていなかったんだ。それで私はシカゴ中のギタリストに電話して、ヘヴィ・ゲージの弦を探し回った。普通だったら次の朝、楽器店が開いたら買いに行くんだけど、ジョニーは何が何でもすぐに必要だと言い張っていたよ。結局その頃シカゴに住んでいたスティーヴ・フロインドにスタジオに弦を持ってきてもらったんだ。もう午後11時を回っていたけど、それからレコーディングしたんだ。「マイ・ソウル」は素晴らしい出来映えになった。どうしてもヘヴィ・ゲージの弦でなければこの出来にならなかったのかは判らない。でもジョニーにとっては、それが絶対に必要だったんだ。そんな彼のこだわりには敬意を表するよ。大変だったけどね(苦笑)。

●1980年代のジョニーのギター・プレイについてはどう感じましたか?

ジョニーはドラッグの問題を抱えていたけど、血気盛んだったよ。常に音数が多くて、私はいつも「もっとゆっくり弾いた方が良い」と言っていた。彼はスローで味のあるプレイだって弾けるんだからね。ただ途中から、彼は私の意見を聞こうとしなかった。共同プロデューサーのディック・シャーマンの方が、私よりも柔軟で、ジョニーも彼の話すことに耳を傾けていたよ。『サード・ディグリー』ではディックとジョニーにレコーディングの作業を任せた。私はセッションに1度しか顔を出さなかったよ。素晴らしいアルバムになったのは、私が現場にいなかったことも関係していると思う。『ジョニー・ウィンター登場 The Progressive Blues Experiment』(1968)に参加していたベーシストのトミー・シャノンとドラマーのアンクル・ジョー・ターナーを連れてきたのは私の仕事だったけどね。『シリアス・ビジネス』も悪くはなかったけど、『ギター・スリンガー』と『サード・ディグリー』を出すことが出来たのは誇りにしているよ。“アリゲイター”はジョニーの作品を出したことで、視野を広げることが出来たんだ。それでロニー・マックやロイ・ブキャナンなど、白人ブルース・ロックの作品も出すようになった。

●ジョニーの“アリゲイター”での3作はいずれも充実していたと思います。彼がレーベルを去って“MCA”から発表した『ウィンター・オブ・'88』(1988)は聴きましたか?

ああ、メンフィスでレコーディングしたやつだよね(“アーデント・スタジオ”で録音)?ジョージ・サラグッドのアルバムを手がけたテリー・マニングがプロデュースしたんだ。うーん、あのアルバムは良くなかった。その後にジョニーが“ヴァージン/ポイント・ブランク”レーベルから出したアルバムには良いものもあったけどね。“アリゲイター”でやっていた後期から、彼は健康の問題を抱えていた。 関節炎で苦しんでいたし、まともに食事をしなかったから、栄養不足だった。常に酒とタバコをやっていて、メタドンも実質“ヘロインを止めるためのドラッグ”で、肝臓に負担がかかっていた。通常だったらヘロインを止めたら次にメタドンを止めるんだけど、ジョニーは何十年もメタドンをやっていたんだ。でも晩年になって、彼がクリーンになったと聞いて、本当に嬉しかった。彼とはそれから話す機会がなかったけど、音楽の話をしたかったね。

最終回となる第3回では、イグラウア氏に21世紀のブルースの展望、そしてクリストーン“キングフィッシュ”イングラムやセルウィン・バーチウッド、シェメキア・コープランドなどブルースの新世代を担うアーティスト達について語ってもらおう。

2021年6月18日を“アリゲイター・レコーズ・デイ”とするシカゴ市の宣言書 / courtesy Alligator Records
2021年6月18日を“アリゲイター・レコーズ・デイ”とするシカゴ市の宣言書 / courtesy Alligator Records

【“アリゲイター・レコーズ”公式サイト】

https://www.alligator.com/

【50周年記念アルバム】

『Alligator Records — 50 Years of Genuine Houserockin’ Music』

3CD / Alligator Records(海外盤)

現在発売中

https://www.alligator.com/news/index.cfm/nid/869/t/ALLIGATOR%2DRECORDS%2D%2D%2D%2D50%2DYEARS%2DOF%2DGENUINE%2DHOUSEROCKIN%27%2DMUSIC%2DSet%2DFor%2DJune%2D18%2DRelease/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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