【戦国こぼれ話】織田信長が比叡山の焼き討ちを行った理由は、宗教弾圧が目的だったというのは真っ赤な嘘
本年9月12日、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)で織田信長の焼き討ちによる犠牲者の慰霊法要が営まれた。それは、敵味方を問わないという画期的なものだ。ところで、織田信長が比叡山の焼き討ちを行ったのは、宗教弾圧が目的だったというが嘘だというのはご存じだろうか。
■比叡山の焼き討ちとは
元亀2年(1571)9月、信長の軍勢が坂本・堅田(滋賀県大津市)付近に放火を開始すると、一斉に比叡山延暦寺(同)に攻め込んだ。
その様子は『信長公記』に詳しく書かれており、僧侶、男女、子供にかかわらず撫で斬りにされ、根本中堂などが灰燼に帰したという。
死者の数は、フロイスの書簡には約1千5百人、『信長公記』には数千人、山科言継の日記『言継卿記』には3千~4千と書かれている。いずれにしても、相当な数の人間が亡くなった。
坂本周辺に住んでいた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって皆殺しにされた。
■比叡山焼き討ちの通説的な見解
信長による比叡山焼き討ちは、どのように理解されてきたのか。天台宗の比叡山延暦寺は、中世をとおして宗教的な権威として畏怖され、ときの権力者は公家、武家を問わず、容易に手出しをできなかった。
しかし、信長はその中世的権威を否定すべく、焼き討ちを実行に移した。それは、信長の革新性や無神論者を裏付けるような出来事であると評価されてきた。
加えて、信長は仏教を牽制すべく、キリスト教を優遇したとまで言われてきたほどである。
当時の人々は、信長の焼き討ちをどう考えていたのか。『言継卿記』には、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難した。
仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。少なくとも、褒められるようなことではなかったのは事実である。
■堕落した比叡山延暦寺
一方で、信長自身はどう考えていたのか。当時の比叡山延暦寺の様子について、『信長公記』には「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれている。
つまり、延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』にも延暦寺の僧侶が修学を怠っていた状況が記されている。
そのうえで、延暦寺は信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したというのだ。こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。
■敵に与同した比叡山延暦寺
前年の元亀元年(1570)、朝倉氏・浅井氏と戦っていた信長は、比叡山延暦寺に対して、①信長に味方をすれば、山門(比叡山)領を返還すること、②一方に加担せずに中立を保つこと、③①②を聞き入れないなら根本中堂を焼き払うことを通告していた(『信長公記』)。
結局、比叡山の衆徒は回答することなく、あろうことか朝倉氏、浅井氏に味方した。信長は申し出が拒否されたので、比叡山焼き討ちを決意したのだ。
■信長は仏教を否定しなかった
重要なのは、信長が仏教を否定したのではないということだ。根本的なことは、仏教者たる比叡山延暦寺の僧侶が仏教者たる本分を忘れ、修学に励まないこと、放蕩生活を送っていたことに加え、信長に敵対する勢力に加担したからである。
信長による比叡山焼き討ちは、仏教の否定、比叡山の宗教的権威の否定と捉えられ、信長の革新性を裏付ける行動とされてきた。しかし、現在の研究では、信長にそうした意図がなかったと指摘されている。