【京都市】うなぎの寝床が増えたのは税金逃れは誤り 秀吉説も江戸時代説も根拠なし 専門家に聞きました!
「まちや」という呼び名は既に平安末期の書物にあらわれますが、京に町家が増えだしたのは戦国期のようです。天下を意識し、紳士的な振る舞いで入洛したのは織田信長が初めてでした。地子税を免除し、定住者を増やすなど、荒廃していた当時の首都・京都を再興していったといわれます。やがて商業活動を行った庶民が職住一体の住居を構えるようになったのが町家の原型といわれています。
さて、「豊臣秀吉の時代には家の間口の広さに応じて地子税を課し、町衆たちは負担を軽くするために間口が狭く、奥行きを深くした。これが京の鰻の寝床の所以だ」、あるいは、「鰻の寝床が増えたのは、江戸時代頃に町費が間口に応じて決められたためである」との説が流布されています。観光ガイドさんでさえ、まことしやかにそう説明される人がいますが、専門家によると、2023年1月18日の時点でもそのような文献は見当たらず、明らかに誤りだと言います。
都市計画学が専門の中林浩元神戸松蔭女子学院大学教授・京都自治体問題研究所理事にお話をお伺いしました。「密度ある市街地の場合、税金があるから間口を狭くするとかではなく、だれもが街路に面する部分を多くしたかったはずです。とくに商家は。まして町家が出き始めたころは、奥行きに対する仕様も未成熟で、奥行きが短ければ税金の付加も少なかった事例もあったようですので、間口によって税金を課したということはありません」
さらに、「江戸時代の京都の税制は、間口幅に関係なく、まず町に対し総額が賦課され、それを、その町を構成する家持町人が分担する、つまり1軒いくらで負担する制度でした。これを軒役といい、江戸や街道筋の宿場の間口長さに対する税制とは異なっていました。したがって町家の間口の長さと税金に関係はない」のだそうです。
まして、 京都に現存する町家は、1864年の蛤御門の変ののちに発生した元治の大火(どんどん焼け)によって3万戸近くの建築物が焼け落ちた以降に建てられたものがほとんどですから、秀吉説や江戸時代説はありえません。どうやら、ある地方の税務署パンフレットの楽しいエピソードに掲載されたのが、京都のこととして流布してしまったようです。
さて、中林浩元教授は、京都のまちづくり市民会議共同代表として、2023年1月28日に京都弁護士会の主催で開かれる「緊急シンポジウム・規制緩和は市民を幸せにするか~若者・子育て世代に住みやすい街へ~」へパネリストとして登壇されます!
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