企業が人を採用するという倒錯した発想が終わるとき
企業が人を採用するとはいっても、応募してきた人のなかから採用するほかなく、実は、企業が人を選ぶ以前に、働く人が企業を選んでいるのです。故に、企業が人を選ぶ基準よりも、人が企業を選ぶ基準のほうが重要です。では、人は何を基準に企業を選んできたのか、その基準は変わるのか。
国益への貢献
金融庁は、かつて、金融行政方針のなかで、金融庁職員に対して国益への貢献を求めると述べて、金融界に新鮮な衝撃を与えました。衝撃だったのは、そこに金融庁自身の改革にかける強い思いが溢れていたからですが、今にして冷静に思えば、国家公務員の使命が国益への貢献であることは自明であって、自明のことを述べて新鮮に響くことは異常なのです。
当時の金融庁の思いからすれば、自分の意思で国家公務員を目指してきた人は、少なくとも入庁時には国益への貢献に燃えていたはずなのに、時間の経過とともに金融庁という組織への貢献に没頭するに至る事態に対して、原点への回帰を求めざるを得なかったのでしょう。
顧客のために働くのか
金融庁は、国民の利益を守ることを使命にしているのですから、金融機関に対しては、金融機関自身の利益のためではなく、顧客の利益のために働くように求めざるを得ず、そのことは、より具体的に、金融機関の経営者に対して、組織のためではなく、顧客のために職員が働く風土の醸成を求めることになるわけで、その範を垂れるために、金融庁は、自分のところの職員に対して、国益への貢献を求めたのです。
しかし、金融庁も含めた金融界の人の多くは、金融庁の意図を十分に理解したとしても、そもそも、どれほどの人が国益への貢献を目的に国家公務員になったのか、金融機関に勤めている人は顧客のために働くという意思をもっているのか、あるいは、もっていたのか、内心の疑義を感じたに違いありません。当時の金融庁のすごさは、おそらくは敢えて意図的に疑義を起こさせ、反省の契機を与えたことでしょう。
組織のために働くのか
金融機関に限らず一般に、企業に勤める人は、企業のために働くという意思のもとに、企業で働いているのでしょうか、国家公務員は国民のために働くものだという前提は正しいのでしょうか、むしろ、素直に考えれば、人は誰しも自分のために働くのではないでしょうか。
人は誰しも自分のために働く、そのことを前提とするからこそ、企業や官庁のような組織が必要になるのです。組織とは、人は自分のために働くことを前提とし、その働きの集積が全体として社会的付加価値を創造できるように、構成員の働き方を動機づける体系です。いうまでもなく、組織が必要なのは、各自が勝手に自分のために働くよりも、組織を通じて働くほうが創造される付加価値が大きくなるからで、これが分業の原理です。
分業の原理のもとで、人は与えられた役割への貢献を求められる、つまり組織への貢献を求められます。人が先にあって、人が組織を作るわけですが、組織ができれば、組織が人を支配し、組織が人に対して組織のために働くように強制するのです。こうして、人は自分自身の手で自分自身に対峙する他者を作り出す、これが人間の疎外と呼ばれる現象ですが、疎外は不可避です。故に、組織が先にあって、組織が人を雇うという倒錯が生じるのです。
偶然の出会い
勤務先を選択する段階において、組織のために働くことを目的とする人はあり得ません。金融庁が想定したとおり、金融庁という組織のために働きたいと思って金融庁に入った人はいないのです。しかし、だからといって、国益に貢献したいと思って金融庁に入ったかは大いに疑問であって、そもそも、原点において職務上の自覚的な動機があったと考えるのは不自然です。
人は、生活の必要に発して、何かの偶然で勤務先に出合い、職務上の理由ではなく、個人的な好みで決断すると考えるのが自然です。個人的な好みとは、勤務先の所在地、知名度、事業の安定度などであり、自分の得られる処遇等の条件です。要は、人は自分のために働くのであって、そこに職務上の動機を仮構するのは、雇う側にとっても、雇われる側にとっても、自分の決断を合理化するための方便なのでしょう。
人が職務を採用する
働くことが企業に勤めることになるとき、生きがいと働きがいが一致することは稀で、人は、多くの場合、単に生活の資を得るために働くのですから、雇う側を中心にした人の採用という発想は、人は企業に属すべきだということを前提にしたものとして、そもそも、おかしいのであって、むしろ、全く逆に、人が自分の生活の都合で企業の提供する職務を採用するのです。
実は、このように考えない限り、企業の立場からの選考基準が定まりません。なぜなら、職務が明確に定義されているからこそ、定義された職務に対する人の適性を論じ得るからです。また、職務が明確に定義されていることは、働く人にとっては、職務を選択する際の便宜であり、企業にとっては、組織構造の合理化の前提です。
ベネフィットとは
働く人は、職務に魅力を感じて応募するわけではないので、企業は働く環境を魅力的にして、それを求人の武器にするのです。英語というか米語では、職務をジョブ(job)、ジョブの対価をコンペンセーション(compensation)、働く環境の魅力をベネフィット(benefit)といいますが、コンペンセーションは、労働という不利益の正当なる補償という意味であるのに対して、ベネフィットは福利と訳されますが、働く人の利益であって、これこそが人を引付ける魅力になっているのです。
ベネフィットの代表は企業年金と健康保険ですが、新しい働き方の普及のもとでは、在宅勤務、ペット連れの勤務、子供の保育施設など、多種多様なものを考えることができます。働く人の立場で様々な自由と利便性を提供することにより、職務に適した人材を引付け、合理的なコンペンセーションとあいまって、働く人の就労意識を高めて生産性の向上を図ることにこそ、企業の人材戦略はあるべきなのです。
理想の追求
組織の期待と働く人の意思が一致したときに生産性が最大化するのですから、生産性改革の最上位の課題として、生きがいと働きがいとの一致という理想の追求があるわけですが、従来は組織の期待の方向から解が模索されたのに対して、これからは働く人の意思の方向から問題への接近がなされるのです。いうまでもなく、それが働く人を主語にしている働き方改革の本質です。
では、どのようにして働く人は働く意味を見出すのか。組織として、人は自分のために働くものであり、組織のために働くものではないという事実を正面から認め、働く人に対する期待を縮小、もしくは放棄するとき、人は自分自身の力で働く意味を見出すと考えるほかありません。実際、例えば、職員に国益への貢献を求めた金融庁は、職員が自分のためにする自主的な活動にも公務としての地位を与え、自分なりの国益への貢献を発見するように職員を促すことにしたのです。
顧客との共通価値の創造
さて、この金融庁の施策を金融機関について適用すると、どうなるか。金融庁の立場からの優等生的な答えをすれば、金融機関が働く人に対する期待を縮小、もしくは放棄するとき、人は顧客との接点のなかに自分の働く意味を見出そうとする、あるいは金融機関の経営者は、職員を、そのように動機づけなくてはならないということです。そして、実は、これが金融庁の重点施策である顧客本位の業務運営の本質だということです。
つまり、人は、自分の提供した金融機能が顧客によって適切に利用され、そこに社会的付加価値が創造されることを通じて、社会における自分の位置を発見し、自分自身が高められたと感じ、働きがいを感じる、これが金融庁のいう顧客との共通価値の創造であって、金融機関と顧客との間の共通価値の創造は、その結果にすぎないのです。
そして、金融に限らず、顧客との共通価値の創造こそ、真に働くことの本質なのです。ピアニストは自分のために弾き、それが聴衆、即ちピアニストの顧客に感動を与えたとき、そこに共通価値が創造され、職業としてのピアニストが成立するのです。この原理は、全ての働くことについて共通です。