奥嵯峨に清々しい青紅葉を求めて
JR嵯峨野線・嵯峨嵐山駅からスタートし、最初に訪れたのは清凉寺。
平安初期、この地には貴族の源融が営んだ山荘である棲霞観(せいかかん)があったが、源融の没後、棲霞寺(せいかじ)に改められたのが起こり。さらに寛和元(985)年、東大寺出身の僧・奝然(ちょうねん)が釈迦如来像を中国より持ち帰って華厳宗の寺とし、寺名を清凉寺とした。
鎌倉後期には大念仏中興上人と呼ばれる円覚(えんかく)が融通念仏を行ったため、室町時代には融通念仏の大道場として知られるようになり、豊臣秀頼や、江戸中期の桂昌院の寄進もあって現在に至っている。
境内を歩くだけで、源融の墓、法然上人の二十四歳像、秀頼の首塚、桂昌院寄進の本堂など、この寺院と著名人との関わりに触れることができる。
続いて訪れたのは、清凉寺の西隣にある宝筐院だ。平安後期に白河天皇が勅願寺として建立し、南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵が中興、黙庵に帰依した室町幕府二代将軍・足利義詮からも支援を受けた。その後、江戸時代を通じて臨済宗天龍寺派の山外塔頭の時期があり、明治以降に現在の形となった。
寺名は室町幕府の二代将軍である足利義詮の法名にちなんで名づけられている。義詮は、南北朝の争いの中で、敵方の有力武将であった楠木正行を尊敬するようになり、亡くなった後は、正行の墓の傍に我が墓を建てよと遺言したため、境内には正行と義詮の墓が並んで安置されている。
宝筐院門前から北上し、突き当りを右折して清滝方面への道に出て北上すると、右手に鳥居本八幡宮への道が出てくる。まさに知られざる神社といってよく、足利義満の母である紀良子が創建した寺院の鎮守社が起こりという。現在は鄙びた本殿や拝殿、並びの周辺の環境が古き時代をほうふつとさせるためか、時代劇の撮影スポットの定番となっている。
そこから嵯峨野めぐりのメインルートを目指して西側へ。茅葺の家を縫って進むと合流できる。北上すると程なく化野念仏寺が現れ、その界隈は伝統的建造物群保存地区となっており、再び茅葺の屋根を持つ風情ある家が並ぶ。最後に大きな鳥居に突き当たるが、これは愛宕神社一の鳥居で、こちらが愛宕参りの出発点となっている。
さらに奥へ進み、清滝トンネルの手前に現れるのが愛宕念仏寺だ。奈良時代に称徳天皇によって、山城国愛宕郡(現在の京都東山の地)に愛宕寺(おたぎでら)として建立された。平安初期には真言宗(東寺)に属していたが、その頃に鴨川の洪水により堂宇が流失し、天台宗の僧・千観内供(せんかんないぐ)によって七堂伽藍の大寺として再建された。しかしその後は荒廃し、大正11年に3年をかけて現在地に移転した。
本尊は、千観内供が彫りあげた千手観音を祀り、現在も厄除け観音として信仰を集めている。境内には至る場所に石像があるが、これは昭和56年に仁王門の解体復元修理を行った際に、寺門興隆を願って、境内を羅漢の石像で満したいと当時の住職である西村公朝氏が発願したのが始まりで、一体一体すべてが一般の参拝者自らの手によって彫られたもの。当初500体を目標にしていたが、発願10年後には1200体となり、「千二百羅漢」と呼ばれるようになった。
羅漢のスケールに圧倒されるが、楓に包まれた境内は、紅葉の時期でも穴場スポットと言える。青紅葉の時期はなおさらだ。ぜひゆっくり静けさを味わってほしい。
帰りは寺院の仁王門の前が京都バスのバス停になっているので、アクセスに恵まれている。ただし本数は、午後からは1時間に1本しかないので、寺院に入る前に帰りのバス時刻を見て、それに合わせて寺院を出るようにしたい。