【九州三国志】響野原の戦い!英雄の最期と歴史の余韻
島津家の進軍に立ち向かう相良義陽の物語は、古麓城から始まりました。
同年12月1日、義陽は800の軍勢を率い、白木妙見社で戦勝を祈願したのち、阿蘇領に進出します。
彼の本陣は響野原に構えられ、周囲には堅志田城や甲佐城を攻める部隊が派遣されました。
しかし、この布陣を聞いた御船城の甲斐宗運は「義陽らしからぬ配置」と訝しみつつ、慎重に確認を進めます。
そして実際に義陽と知るや、「自ら死地を選ぶとは」とその覚悟を推し量ったのでした。
翌12月2日の未明、宗運は周到に準備を整え、鉄砲隊を先手に、密かに響野原へ兵を進めます。
戦場には小雨と霧が立ち込め、宗運は飯田山に旗を掲げて軍勢の多さを偽装。
一方で実際には相良勢を挟撃する巧妙な作戦を展開しました。
相良勢本陣は勝利の余韻に浸る中、突然の奇襲に混乱を極めました。
戦闘の中で義陽は家臣の進言にも耳を貸さず、床几に座したまま散り、享年38にして生涯を閉じたのです。
その後、義陽の首実検に臨んだ宗運は涙を流し、義陽の立場と信義を悼みました。
「彼がいなければ我らもまた滅びる運命にある」と述べた彼の言葉は、義陽に対する深い敬意と同情を物語ります。
その後、相良家は島津の指揮下に入りつつも、その命脈を保ち続けました。
現在、義陽が討たれた地は「相良堂」として祀られ、歴史の余韻を伝えています。
彼の墓や供養碑も移転や再建を経て残されています。
その地に咲く静かな祈りは、今もなお英雄の最期を語り継いでいるのです。