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【九州三国志】豊後に挑む島津軍!猛攻と反撃の交錯が描く九州戦乱の縮図

華盛頓Webライター
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天正14年(1586年)、島津義弘率いる3万の軍勢が肥後から豊後へ進軍を開始。

豊後の地は大友義統の領地であり、島津氏にとって九州制覇の重要な舞台でした。

この侵攻では、大友氏重臣の入田義実や志賀親度が寝返り、義弘軍の先導役を務めたのです。

島津軍はまず高城を陥落させ、大野郡の鳥岳城、津賀牟礼城、高尾城など次々と攻略。

だが、志賀親次が守る岡城の堅牢な守備と奮戦に手を焼き、攻略には至りませんでした。

岡城を押さえ込む一方で義弘は支城攻略に注力するも、駄原城では朝倉一玄の奇計に敗れ、直入郡の山野城攻略では朽網鑑康の激しい抵抗に苦戦。

鑑康の死後、城は降伏したが、攻略には多大な犠牲を強いられたのです。

一方、朝日岳城の柴田紹安は戦わずして降伏したものの、その後佐伯惟定に敗れ、紹安自身も討たれました。

さらに因尾砦では地元農民の徹底抗戦により島津軍は砦を落とせず撤退を余儀なくされます。

義弘は大分郡の繁美城や鶴崎城への攻撃も指揮したが、吉岡妙林尼や利光宗魚らの奮戦に遭遇。

宗魚を討ち取ったものの、鶴崎城では奇襲を受け、伊集院久宣らが戦死する大損害を被ります。

さらに臼杵城や角牟礼城、日出生城でも地元勢力の反撃に苦戦。

特に日出生城では城主帆足鑑直の奇襲により、新納忠元が負傷し敗退する事態に陥ったのです。

こうして島津軍は大友氏を圧迫しながらも、その守備力と各地の強力な抵抗により完全制圧には至りませんでした。

島津義弘の猛攻と豊後側の奮闘が入り乱れる戦乱は、九州の複雑な勢力図と人々の覚悟を映し出すものだったのです。

最終的に、豊臣秀吉の九州征伐が始まることで、この長く激しい攻防に終止符が打たれることになります。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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