【九州三国志】戸次川に散った命!失策と忠義が交錯する戦いの結末
天正14年(1586年)、島津氏の猛攻を受けた豊後の大友宗麟は、豊臣秀吉に救援を求めました。
秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利軍を率いさせ、讃岐の仙石秀久を主将に長宗我部元親・信親父子を加えた援軍を派遣したのです。
12月、島津軍は大友方の鶴ヶ城を攻め、仙石軍はこれを救うため戸次川の手前に陣を敷きました。
戦略会議では、仙石が渡河して即座に攻撃すべきと主張したものの、元親は増援を待つべきだと反対。
しかし仙石の命で豊臣軍は渡河を開始、迎撃に向かう島津軍との激戦が幕を開けました。
12月12日の夕刻、仙石隊が先陣を切って攻撃したものの、島津軍の奇襲に遭い敗走。
長宗我部軍3,000の兵は孤立し、戦局は混乱を極めました。
乱戦の中、元親は辛うじて脱出し伊予の日振島に逃れたものの、信親は中津留川原で奮戦の末、討死を遂げます。
従った700人もの兵も命を落とし、盟友の十河存保も戦死。
鶴ヶ城はついに陥落しました。
この敗戦に激怒した秀吉は、命令を無視した仙石の讃岐領を没収し、その後の軍務からも遠ざけます。
この戦いは、島津軍の巧みな戦術と豊臣軍の連携不足が浮き彫りとなった一戦でした。
仙石の軽率な指揮と島津軍の周到な作戦が相まって、豊臣軍は壊滅的な被害を受け、若き将・信親の死は特に痛烈だったのです。
後に島津義久が信親の奮戦を讃えたという逸話が残るものの、父・元親の無念と絶望は計り知れません。
戸次川で流された多くの命は、忠義と失策が織りなす戦国の現実を雄弁に物語っています。
戦場に残された無数の犠牲が、豊臣の九州平定へと至る道筋を照らす一方で、この敗北は、武将たちの一瞬の判断が戦局をいかに左右するかを歴史に刻んだのでした。