世界各地の先住民の声と抵抗 ベルゲンKODE美術館の特別展
南米、北米、オセアニア、北欧の各地域を扱った7部の「先住民の物語」展がノルウェーの都市ベルゲンのKODEで開催中だ。
KODEでは「7の異なる地域の先住民」を大規模に同時紹介している点で、世界的に稀であり、欧州最大規模ではないかと言われている。また、先住民族らのアクティビズムもテーマ別の1部として特集している。
先住民を取り扱う展示はノルウェーでは珍しいものではないが、現在、首都オスロでも国立美術館が北欧の先住民サーミのアートを特集しており、「同時期に各地の美術館で」先住民が受けてきた抑圧に光を当てている。植民者でもあった自分たちがいかなることをしてきたのか、内省の意図が反映されている現象といえるだろう。
KODEの先住民展では、170人以上のアーティストによる約285点の作品が展示される。
作品は、現代アート、古代アート、視覚文化を通して、ヨーロッパの植民地化以前から現代までを映し出す。先住民族のメンバーであるか、先住民族出身のアーティストや研究者によってキュレーションされているという徹底ぶりだ。
カナダ
イヌイット、ファースト・ネーション、メティスのアーティストたちが、文化の存続可能性と万物のつながりについて証言。先住民族のケア、親族関係、養育という独特の原則を支える互恵性と尊敬の概念を探求している。
北欧
先住民サーミのアーティストが、手工芸品「デュオジ」や写真などで、サーミと自然との関係を表現。デュオジは、「何かを創造する行為」を表すだけでなく、世界観、精神性、知識をも含む言葉である。
オーストラリア
アボリジナル・アートの一環として点描画に焦点を当てている。1971年、小さなアボリジニの村パプンヤで、ある教師が生徒やコミュニティの人々に校舎に壁画を描くことを提案した。このプロジェクトに参加した人たちは、この活動を楽しみ、一緒に絵を描き続けるグループが生まれた。
ペルー
先住民族グループ以外の人々も、対立的な立場ではなく、補完的な立場から物語の違いを理解できるような態度の変化をもたらす必要があるとして、「逆さまの世界」を見るために、この部屋の作品は全て逆さまに展示されている。
マオリ/ニュージーランド
ニュージーランドのマオリ族を指す「アオテアロア」の現代アート、植民地時代の遺産と決別しようとする14人のアーティストの作品を紹介。現在、多くの先住民アーティストが、植民地化と文化的同化の両方を通して抑圧され、沈黙されてきた先住民のセクシュアリティとジェンダー・アイデンティティに対する過去と現在の抹殺に挑戦している。
ブラジル
「時間を超越したものこそが、人々が生きるすべての世界を支えている」。非ヨーロッパ中心的な起源ゆえに見過ごされ、劣ったものとして退けられてきた先住民の概念に焦点を当て、異なる文化がどのように時間を捉えているかを発見する旅に観客を誘う。
メキシコ
植民地時代からメキシコ革命(1910~17年)後まで、先住民の表現は、ギルドや美術学校に所属できない先住民出身のアーティストによってのみ例外的に制作されていた。展示作品によって、メキシコ人の自己表象の構築に疑問を投げかけ、主観的な語りによって、今日のメキシコの先住民の知識や文化に対する洞察を与える。
「histórias」には意味がある
この展覧会は、ラテンアメリカを代表する美術館のひとつであるブラジルのサンパウロ・アシス・シャトーブリアン美術館(MASP)と共同で企画された。
展覧会で強調されるポルトガル語「histórias」という言葉は、英語における「histories」の使われ方とは異なる用法を持つ。「histórias 」という言葉には、フィクションとノンフィクション写真の両方が含まれ、歴史的なものだけでなく、ミクロとマクロの両方のレベルで、公的・私的な性質の個人的な記録も含まれる。ノルウェー語でも、同様の二重の意味を持ち、過去の解釈と個人的な語りの両方を意味する。
執筆後記
世界各地の先住民を一か所で特集する展覧会は確かに珍しい。筆者もこれが理由で、KODE美術館をどうしても訪れたかった。高校生の時にオーストラリアに1年間留学していたときに、高校で「アボリジニアル・アート」は必須科目であり、その時の記憶が今も深く残っているからだ。まさか、ノルウェーでアボリジニーのアートを見る日がくるとは思ってもいなかった。
言葉や辿ってきた歴史が違っても、どの国にも、「抑圧」や「差別」といった構造があることを思い知らされる展だ。しかし、各地の先住民の社会的・政治的ムーブメントの作品を集めた「アクティビズム」展が同時開催されていることで、抑圧に逆らい、抵抗してきた・今も抵抗中の人々のエネルギーも感じる。日本で社会運動に関わる人が「アクティビズム展」をみると、世界中に同じように闘う者たちがいることを改めて感じるだろう。
先住民たちは言葉を奪われてきたからこそ、日常用品や芸術に自らのアイデンティティと誇りを隠して表現し続けてきた。口を押えられても、別の手段で抵抗しようとする意志は各地で共通であったことを、この展覧会で感じ取った。