スターロッチと義理人情が繋いだウイニングチケットのダービー制覇
生後まもないウイニングチケットと指揮官の出会い
1990年3月21日、北海道静内の藤原牧場で黒鹿毛の牡馬が生まれた。父は1988年の凱旋門賞馬・トニービン、母はパワフルレディ。この母系は藤原牧場にとって大事な血脈で、その母はロッチテスコ、祖母はスターロッチであった。スターロッチは現在の3歳にあたる馬齢で有馬記念を優勝している。この母系をさらにたどると日本の競馬産業の黎明期といえる1926年にイギリスより輸入されたクレイグダーロッチが基礎繁殖牝馬となっている。
この牡馬が生まれて数日後、滋賀の栗東トレセンから伊藤雄二調教師が様子を見に来た。伊藤師は生後間もない馬を見て、その馬の将来を占うことに長けていた。かつてはそのタイミングで桜花賞馬のシャダイカグラや牝馬二冠を制したマックスビューティを高く評価していた。その伊藤師はこの牡馬を高く評価した。牡馬の最高峰といえば日本ダービーである。伊藤師はスターロッチの孫にあたるハードバージで皐月賞を制したことはあるが、日本ダービーはまだ未勝利だった。「この馬でダービーを」と、生まれたばかりの仔馬に対して伊藤師は熱い希望を寄せた。
母系が取り持つ名コンビの縁
時は流れ1992年夏、その牡馬はウイニングチケットと名付けられ、予定どおり伊藤雄二師の元にやってきた。伊藤雄二厩舎は毎年恒例で夏の北海道開催に多くの馬房を構えていた。そして、関東の騎手である柴田政人騎手も同じく例年どおり、この夏も北海道にきていた。
そこで伊藤雄二調教師は柴田政人騎手にウイニングチケットのデビュー戦への騎乗を依頼した。柴田政人騎手はウイニングチケットの祖母であるロッチテスコにも騎乗していた。ちなみに、ロッチテスコにマルゼンスキーを配合して生まれたのがパワフルレディだ。ちなみに柴田政人騎手の師匠である高松三太師は騎手時代、この母系の祖であるスターロッチを優駿牝馬(オークス)優勝へ導いている。この血統と柴田政人騎手の縁は深いものがあったのだ。
柴田政人騎手はトップジョッキ―だがまだダービーを勝っていない。だからこそ、この騎手でダービーを勝ちたい、と願った。そして、このムーブメントはやがて厩舎だけでなく、競馬ファンをも巻き込むことになるが、この時点ではそんな予想をした者はいなかった。
デビュー戦は芝1200mで不良馬場。今でこそJRAの馬場管理技術が向上したので馬場の回復は早いが、当時の不良馬場といえば田んぼのような馬場になることも珍しくなかった。それもあって全く良いところがなかったが、それでも陣営の高い期待は衰えず、指揮官は"この馬でダービーを獲る"と決め照準をダービーに定めて鍛錬を続けた。
義理人情に厚い柴田政人騎手
柴田政人騎手といえば、義理人情の男だ。青森県のいまでは東北町の出身。かつては上北郡上北町という名前だった。柴田政人騎手の生家は農家だったが兼業で競走馬を生産していた。また、兄や叔父も騎手だった。
その中で柴田政人騎手は同じ町の出身の高松三太(さんた)調教師を師事して1967年に騎手になった。"厩舎ひとりひとりを大事にし、声をかけて信頼関係を築く"というのが高松師のやり方で、そのスピリットは高松三太師の息子で同じく調教師となった高松邦男師にも引き継がれた。
柴田政人騎手が人と人のつながりを重んじる精神は、ファンにも向けられたほどだ。現在はコロナ禍のため休止しているが、毎年皐月賞後に行われてきた「ファンと騎手との集い」は柴田政人騎手が熱心に進めて実現した企画だ。
騎乗馬選びでは義理人情を優先し、競馬では最後まで一生懸命に追う。しかし、そんな真っすぐさが優勝劣敗の世界では不利に働くこともあった。もしも柴田政人がビジネスライクに騎乗馬を選んでいたなら、もっと勝てたという声もある。しかし、柴田政人騎手は信念を曲げず、繋がりの深い人物からの依頼と約束を頑なに守った。
来春を見据え、オープン特別のホープフルSに敢えて出走
そんな柴田政人騎手に対し、伊藤雄二師はこれまた頑なにウイニングチケットの騎乗依頼を続けた。
かつて伊藤雄二師はマックスビューティを管理していたが、彼女のデビューから3戦までは北海道での滞在競馬だったこともあり柴田政人騎手が手綱をとった。のちにマックスビューティは桜花賞、オークスを制して牝馬二冠を達成するが、主戦の田原騎手が騎乗停止で乗れなかったオークストライアルのみ、ワンポイントで騎乗したに留まった。
当時は関東と関西の行き来は今ほど盛んではなかったが、この前後に少し動きがあった。関西馬が関東へ遠征してくる機会が増えた矢先であった。以前よりは関西馬に関東騎手が多く乗るようになっていたし、競馬の成績もかつての関東優勢から"西高東低"へ傾きつつあるタイミングでもあった。
柴田政人騎手はウイニングチケットの騎乗を2戦目と3戦目には騎乗できなかったがが、4戦目のホープフルSで再びコンビを組むことになった。ホープフルSは当時はまだオープン特別であり、同週に阪神競馬場ではGIIIのラジオたんぱ杯3歳Sが行われていた。距離は同じ芝2000mで当然、ラジオたんぱ杯3歳Sのほうが賞金も高かった。さらにいえば、この頃は牡馬3歳のGIには朝日杯3歳S(中山芝1600m)が組まれており、ここば一番賞金を獲得できた。しかし、来春を意識するウイニングチケット陣営はあえてホープフルSを選び、再び柴田政人騎手とコンビを組ませる道を選んだ。そして、無事にコンビ復活を勝利で飾ると、ダービーまでのローテーションは3戦、と決めた。
母系ならではの激しさの良し悪し
1993年春、第一戦はクラシックの登竜門である弥生賞だった。当時はトライアルからクラシック本番へ向かうローテーションが主流であったため、弥生賞にはクラシック候補生が集まるのが常だったし、その中で勝ち上がった馬は大いに注目を浴びた。この年のクラシック戦線はまだ混沌としていた。暮れのラジオたんぱ3歳Sを勝ったナリタタイシンは若手のホープ武豊騎手の騎乗もあって注目は高く、この弥生賞ではウイニングチケットと人気を二分した。ウイニングチケットは休み明けプラス10キロでの出走。仕上がりにはまだ余裕はあったが、それもダービーにピークを持っていくための計画に過ぎなかった。ゆったりとレースを進め、坂下から一気にスパートして1着ゴール。まさに完勝だった。
続く、皐月賞では弥生賞での勝ちっぷりの良さもあり1番人気に支持された。しかし、この日のウイニングチケットはレース前からイレこんでいた。伊藤師はかねてからこの血統には気難しいところがあるのを知っていた。馬の気分よく走らせれば物凄い爆発力を発揮する。しかし、気分が乗らなければ力を発揮できない、という気性であった。結果的にこの皐月賞では、この母系の悪いところが出てしまう結果となった。実況のアナウンサーは中団につけたウイニングチケットの名を
道中なんども呼んだが、1着でゴールを駆け抜けたのは後方待機策に徹して直線に賭けたナリタタイシン、2着は前で正攻法のレースをすすめたビワハヤヒデ。ウイニングチケットは5着に終わった。
■1993年皐月賞(GI) 優勝ナリタタイシン(ウイニングチケットは5着)
最高の仕上がり。リラックスして迎えた日本ダービー
1993年5月、いよいよ第60回日本ダービーを迎える。
柴田政人騎手としては、日本ダービーへは19回目のチャレンジ。ウイニングチケットの仕上がりは陣営の計画どおりに万全であった。しかし、1993年の牡馬クラシック戦線は皐月賞を勝ったナリタタイシン、デイリー杯3歳S1着、朝日杯2着などデビューから連対を外さずコンスタントな成績をおさめるビワハヤヒデの活躍も目覚ましかった。この2頭とウイニングチケットの頭文字をとり、高級車のBMWをもじって"BNW対決"と呼ばれたりもした。この3頭の名前が横並びになるとおり、周囲の評価も団子状態であり、どの馬にもダービーを勝つチャンスはある、と言われていた。
この年も44歳で未だ日本ダービー未勝利の柴田政人騎手へたくさんのエールが送られた。柴田政人騎手は1988年、コクサイトリプルで日本ダービーに出走したが、その事前のイベントで「ダービーを勝てたら騎手をやめてもいいくらいの気持ちで臨みます」と話したことと、40歳を過ぎた年齢も手伝って"今年こそは"と煽りたてた。そして、この高まりを柴田政人騎手自身が強く意識しており、ダービーに集中するために取材を一切断った。柴田政人騎手は普段はむしろ取材には強力的な方だっただけに、この決断には並々ならぬものを感じさせた。
そんな鞍上の意気込みに応えるかのように、この日のウイニングチケットは皐月賞とは違い、動じたところがなかった。陣営の仕上げも万全。5枠10番からゲートを切ると、そのまま淡々とした流れの中で中段でしっかりと折り合った。最後の直線を向いたところでインコースを走っていたウイニングチケットの前方がポッカリと空いた。そして、すかさず鞍上はそのコースを選びウイニングチケットを促した。終始、とてもリラックスしていたウイニングチケットはすぐに反応し、先頭を伺った。そんなウイニングチケットを身ながらビワハヤヒデは内に潜り込み追い出したが、ウイニングチケットの長くキレのある二の脚には叶わなかった。さらに外からナリタタイシンがやってきたが、その前にウイニングチケットがゴール板を駆け抜けていた。
■1993年日本ダービー 優勝ウイニングチケット
柴田政人騎手は優勝後のインタビューに応えながら、感慨深げな様子だった。
「長い道のりだったと思います。嬉しさがグーっとこみ上げてきて、これで自分もダービージョッキ―の仲間入りができたと報告したい」
騎手になり27年目でようやく手にした栄冠。場内に響き渡ったマサトコールも「とても心地のいいものだった」と穏やかな笑顔をみせていた。
その後のウイニングチケット
ウイニングチケットはその後、菊花賞(3着)、ジャパンカップ(3着)を善戦した。しかし、翌1994年は鞍上の柴田政人騎手が落馬により大怪我を負い9月に騎手引退を表明。ウイニングチケットも秋競馬で屈けん炎発症し、柴田政人騎手を追うようにターフを去った。あの人馬が共に念願叶えた日から、たった1年余りの日の出来事であった。
振り返ってみればこのダービー制覇は、五代母のスターロッチをはじめとした一族と、ともに戦ってきた高松三太師、その愛弟子である柴田政人騎手、この血を知り尽くした伊藤雄二厩舎の集大成の勝利だった、ともいえるだろう。
2021年8月現在、ウイニングチケットは種牡馬を引退し北海道・浦河の乗馬施設AERUでとても元気に暮らしている。現在31歳。共に戦ったビワハヤヒデ、ナリタタイシンも亡くなり、JRAのGI勝利馬で存命中の馬の中では最高齢である。
いまもなお、よく食べ、とてもリラックスして暮らしているという。いつまでも元気でいて欲しいと心から願う。
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