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才覚がありながらも、太り過ぎて身を滅ぼした龍造寺隆信とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
龍造寺氏の居城だった佐賀城。(写真:イメージマート)

 多少太っているのは貫禄があっていいかもしれないが、度を過ぎると話は別である。龍造寺隆信は才覚があったものの、太り過ぎて身を滅ぼしたといわれているので、そのあたりを取り上げてみよう。

 享禄2年(1529)、龍造寺隆信は周家の子として誕生した。周家は、龍造寺氏の支流の水ケ江家の出身である。隆信は7歳のときに出家したが、のちに還俗して水ケ江家の家督を継承した。

 隆信に出家を命じたのは、曽祖父の家兼だったといわれている。家兼は幼い隆信の顔つきを見るなり、高い功徳を持つ高僧になると思ったという。しかし、のちに隆信が龍造寺家を興してくれると家兼は考え、還俗を命じたという逸話がある。

 その後、惣領家の胤栄が病没したので、隆信はその家督を継承した。天文19年(1550)、隆信は少弐氏に対抗すべく、大内義隆と同盟を締結した。その際、隆信は義隆から「隆」の偏諱を与えられ、隆信と改名したのである。

 翌年、隆信は家臣が反旗を翻したので、筑後に逃れることになったが、やがて国人らの助力を得て復活した。宿敵の少弐氏を破ったのは、永禄2年(1559)のことで、やがて肥前一国に威勢を拡大した。

 当時、九州で力を持っていたのは、豊後大友氏と薩摩島津氏だった。やがて、龍造寺氏は肥前一国に勢力を拡大する過程において、大友氏や島津氏に対抗しうる大名に成長していったのである。

 元亀元年(1570)、大友宗麟が肥前に攻め込んできた。隆信は大友勢に勝利すると、その勢いで松浦党の国人を打ち破った。天正6年(1578)、隆信は有馬氏と和睦することで、悲願だった肥前一国の統一に成功したのである。

 天正12年(1584)、有馬氏が隆信を裏切り、島津氏に味方した。有馬・島津連合軍は龍造寺氏に戦いを挑むと、出陣した隆信は討たれたのである(沖田畷の戦い)。隆信は立派な体格から「肥前の熊」と称されており、肥満体のため六人担ぎの駕籠に乗っていたという。

 これほど隆信が太り過ぎた理由は不明であるが、天正6年(1578)に子の政家に家督を譲っていた。一説によると、隆信は隠居の身となり、酒浸りだったというが、実権を握り続けたのだから疑わしい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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