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GPIF改革、あるいは投資家の内部統治と信託

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資産運用改革が政治の大きな問題になっています。公的年金給付の裏付けになる資産の運用のあり方は、国民の年金受給権を守ることを専らに考えて、決定されねばなりません。さて、GPIFは、国民の信託に応えて、受託者としての責任を果たせるのか。

GPIFの内部統治と信託

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GPIFの問題は、GPIFという組織の内部統治のあり方の問題であり、日本株を増やすとか、国債を減らすとか、そのような技術的な問題ではありません。GPIFを信託に例えるならば、受託者としてのGPIFが受益者としての国民の利益を守れるか、ということが問題なのです。

GPIFを信託に例えるのではなく、GPIFに信託の理念を導入したらどうか、それが本稿の主張ですが、その前に、日本の信託という仕組み自体を再検討する必要があります。では、信託のどこが問題か。

信託の本来の主役は、受益者と、その受益者の権利に属する信託財産です。そして、制度の核心は、専らに受益者の利益を守る受託者の重い責任です。委託者は、信託設定の当事者ではありますが、信託が成立した後では、積極的な役割を演じることはあり得ません。

しかしながら、日本の制度の現実では、委託者中心の信託になっているようにみえ、受託者の責任が曖昧になっているようにみえるのは、なぜか、ここが論点です。

おかしな裁判の背景

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そういう意味では、九州石油業厚生年金基金をめぐる訴訟の一審判決は、おもしろい事案です。この裁判は、概ね、次のようなものです。

不動産関連の投機性の高い特定の投資戦略に集中的に(総資産の75%!)運用していた基金は、その戦略の投資の失敗により、巨額な損失を受けました。ついては、基金は、この戦略を信託口座で運用受託していた信託銀行に対して、注意義務違反に基づいて、損害賠償請求の訴訟を起こしましたが、一審では全面敗訴になったのです。

基金が資産管理責任者に求められる節度から逸脱し、大暴走した挙句に巨額な損失をだしたことにつき、財産管理のための信託の受託者である信託銀行には、その暴走を止めるべく、分散投資の原則に基づく助言をすべき義務があったという基金側の主張に対して、一審判決は、信託銀行には、基金の暴走を止める義務はないとして訴えを退けたというものです。

この裁判、暴走した基金の自己の責任を棚に上げて、信託銀行を訴えるというものですから、どこか間違っているのです。事実として、当基金の資産運用は常軌を逸しており、その結果が大きな損失につながったのである以上、基金の理事長等の役員の責任は免れません。

この訴訟、本来あるべき姿としては、基金の役員が被告となるものでなければならないはずです。ところが、その基金の役員が、信託銀行を、いうなれば「共犯関係」にあるものとして、訴えているのですから、おかしいのです。

おかしな信託の構造

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では、なぜ、おかしなことになるのでしょうか。この一審判決は、要は、損失の原因は、信託契約の委託者である基金の指示に起因するのであり、指示に従った受託者には、責任はないということですから、受託者の責任が不在で、全くもって、委託者中心に構成された信託を前提にしています。そこが、信託の仕組みとしては、おかしいのです。

訴訟の舞台となった信託契約の委託者は、基金です。同時に、受益者も基金です。これは、委託者と受益者が同一となる、いわゆる自益信託なのです。ですから、基金は、委託者兼受益者として、原告となっているのです。その意味では、本来の主役である受益者としての基金、そして基金の背後にある「真の(あるいは、実質的な)受益者」としての加入員受給者が主役の訴訟ともみられます。

しかしながら、基金は、受益者の立場としては、資産運用の内容について指示を行うことなど、あり得ないわけで、あくまでも、訴訟においては、主役として問題にされているのは、委託者としての基金の立場なのです。

裁判は、委託者としての基金と、受託者としての信託銀行との間に、一種の「共犯関係」、あるいは責任の一種の連帯性が成り立つかどうかが争点となっているのですが、一審判決は、それを完全に否定し、信託銀行の責任を一切認めなかったので、間接的に、基金の単独の責任を認めたことになります。

その判決自体は、事案の内容を考え、かつ訴訟の構造を考えれば、当然のことだと思われます。しかし、この訴訟の構造は、いかにもおかしい。おかしくなるのは、信託の構造がおかしいからだ、それが本稿の主張です。

「受託者責任」

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実は、厚生年金保険法上、厚生年金基金の役員や資産運用にかかわるものには、忠実義務等の責任が課せられています。ならば、信託銀行の受託者としての責任との間に、一種の連帯性を認めることも可能ではないのか、これが論点です。

この訴訟、敗訴した原告の基金が控訴したので、今、二審の裁判が進行中です。当然ですが、論理構成としては、基金の法令上の責任と、信託銀行の法令上の責任の分担、もしくは連帯性が争点になるのだと思われます。

実際、一審判決のなかでも、米国の制度においては、責任の連帯性があることに言及しつつ、日本国の法律は異なるとして、原告主張を切り捨てているので、控訴審では、日本法の解釈のなかで、米国法的な帰結を導けるかどうかが、争点になっているのではないでしょうか。もっとも、この議論、裁判実務に織り込むことは、極めて難しいと思えますが。

米国型の信託

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ただし、立法論としては、米国型の信託というのは、真剣に検討されなければなりません。

簡単にいってしまえば、厚生年金基金という制度自体を信託と見做すのが、米国型の制度設計です。そうしますと、基金には、受託者がいなくてはならず、基金事務局は、その受託者の委任を受けて専門的な業務執行を行う機関ということになります。そうして、外部の運用会社は、専門的な資産運用業務の委託先として、基金における受託者の責任において、選任された立場になります。

これらの関係当事者は、全て、フィデュシャリー(Fiduciary)とよばれ、信託の受託者としての責任を連帯して負うことになります。ですから、フィデュシャリーの責任は、日本でも、「受託者責任」と訳され、例えば、厚生年金保険法で定める基金の役員等の責任も、しばしば、基金の「受託者責任」といわれているのです。

実は、ここには、概念、もしくは理念として、日本でも、擬制的に、あるいは類推的に、基金を信託と見做す余地があるわけです。ここから、立法論までは、もう一歩でしょう。

このような米国型の当事者関係では、今回の訴訟のように、資産運用の委託者としての基金が受託者としての信託銀行を訴えるということは、考えにくい。制度の受益者等から、両者が訴えられるというのが、素直な構図です。

そして、争点は、基金と信託銀行との間の責任配分になるわけです。こうした、米国の制度を下敷きにして、日本の現実に当てはめて訴訟を起こしたとき、一審判決では、責任割合を、基金100、信託銀行0.としたのです。控訴審では、信託銀行0というのを、少しでも信託銀行の責任を認めさせようとして、争っているわけでしょう。私は、基金の責任100でいいと思いますけれども。

ひとつの信託、ひとつの受託者責任

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立法論として、日本の制度を改善するとしたら、鍵は、年金制度自体を、ひとつの信託として構成し、関係当事者の責任を、ひとつの受託者の責任に一括することです。

年金制度の運営には、様々な分野の専門性を統合することが必要です。資産運用だけでも、現代の投資の世界は、非常に高度かつ広範囲な領域にわたっています。だからこそ、専門家の緊密な連携と協働が必要なのです。そのためには、関係当事者を一つの責任のもとに統合することが必要なのです。

異なる立場にあり、異なる機能を提供する様々な当事者間には、責任の連帯性と同時に、責任の明瞭な分掌の観点も必要で、双方向における緊密な関係が構築されなければなりません。そこには、高度な制度設計の技法が必要です。

それには、米国の制度を研究することは、有益でしょう。もともと、信託というのは、英米法から接受したもので、日本の法体系のなかでは少し異色なのです。英米法の信託の理念を、日本の現実のなかに上手に取り込むためには、実務に即した検討の積み重ねが必要です。

ここで取り上げた訴訟、このおかしな訴訟でも、そこに潜む問題を深く検討していけば、本質的なものが見えてくるわけです。

一個の信託としてのGPIF

公的年金の資産運用改革も、そうした議論の先に、検討されるべきことです。

以前、産業競争力会議で、ローソン社長の新浪剛史議員が、例として、「GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の海外株式運用分12%を全て日本株式に振り向け、他機関投資家も協同して、低資本効率企業に対して強く働きかけて合従連衡を要請していく」という案を出されていましたが、このような各論からは、GPIFの運用改革を議論することはできません。

GPIFが一個の信託として構成され、私がGPIFのフィデュシャリーだとして、米国的な真の信託受託者としての責任のもとに行動するとき、新浪氏の提案を受け入れることは、極めて困難だと思います。なぜなら、受託者は、専らに受益者(すなわち、国民全体)の利益を考えなければならないからで、「株主圧力を低資本効率企業に対してかける」というような政策課題を直接的に投資判断に含めることは、「専らに」受益者の利益を考えることになるかどうか、疑義もあろうからです。

先ほどからの議論との関連でいえば、受託者としてのGPIFは、専らに受益者である国民のために働き、委託者としての政府の政策を考慮することは一切できないのです。委託者としての政府は、GPIFという信託との関連では、信託の本旨に拘束されるものであり、その信託の本旨を体現するのは、受託者としてのGPIFという組織でなければならないのです。

もちろん、GPIFの現在の資産管理のあり方が、専らに受益者の利益を考えた結果として、適切に運用されているかどうか、資産運用の各論における改善の余地はないのか、そうした様々な異論はあり得るでしょう。

しかし、大切なことは、先に、GPIFに関係する様々なフィデュシャリーを定め、そのフィデュシャリー間の責任の体系を明確にすることです。適切な統治のもとでこそ、資産運用も適切になります。この順番は、変えようがない。

なお、厳格な統治のもとで運用されるGPIFの日本株式投資戦略においては、結果として、被投資先企業の統治に対して、経営改革の方向での健全な圧力が働いていく、そのような好循環は、当然に想定されることです。ただし、あくまでも、結果として、そうなるだけです。

真の改革路線と真の信託

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投資家の良き統治が、投資先企業の統治を良くしていく、この民と民の緊張関係から民の活力を引き出していくこと、これこそが、安倍政権の改革路線の真の姿でなくてはなりません。

実際、政策のなかに、「日本版スチュワードシップ・コード」の策定というのが入っていますが、これは、まさに、そういう路線にあるものです。また、企業統治の要素を入れたJPX400という新しい株価指数の導入も、投資信託の改革も、全く同一の議論の方向にあります。

安倍政権の政策にちりばめられた多くの部品は、それなりに、政策の設計図の整合性のなかに配置されているように見えます。問題は、それらを盛り込み、有機的に結合させる受け皿ですが、私は、それこそが信託だと思うのです。

信託というのは、規制等の公的な力に依存せず、受託者の責任を軸として、民の自律的管理のもとで、受益者の権利を守り、社会的公正を実現していく制度でなければなりません。事実、英米法のもとでは、Trust(信託)は、Equity(衡平)の法理として発展してきたのです。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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