「天下のご意見番」大久保彦左衛門が残した『三河物語』は、信用できる内容なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、『三河物語』も参照されていると思われる。大久保彦左衛門が残した『三河物語』は、信用できる内容なのか考えてみよう。
三河武士とは、徳川家康に草創期から仕え、江戸幕府開幕に功績のあった三河出身の譜代の家臣を称していう。代表的な人物としては、酒井忠次、本多忠勝、鳥居元忠などがいる。彼らは家康に対して強い忠誠心を持ち、精強な武士として知られていた。
大久保忠教の手になる『三河物語』は、三河武士や徳川氏歴代の活躍を記した書物である。著者の大久保忠教は永禄3年(1560)に誕生し、寛永16年(1639)に亡くなった。家康より年少である。
忠教は家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、歴戦の勇者として知られる三河武士の代表だった。また、「天下のご意見番」と称され、講談などで多くの逸話、奇行の持ち主として有名になった。しかし、そのほとんどは単なる創作に過ぎない。
忠教は徳川家で第一の功臣だったにもかかわらず、晩年は不遇だった。忠教の知行地は、甥である忠隣の所領の中から武蔵国埼玉郡内2千石が与えられたに過ぎない。
のちに忠隣が改易されると、その知行地は没収された。家康からは、改めて三河国額田郡に1千石を与えられ、さらに同郡内で1千石を加増されたという。これで、ようやく計2千石になったのである。
忠教は『三河物語』の中で、徳川氏歴代の事績と大久保一族の軍功を子孫に向けて著述した。子孫への教戒も書かれている。それゆえに、「決して、他人には見せてならない」と記されている。門外不出だったのだ。
同書には、忠教の徳川氏の譜代の家臣としての自負心が認められる一方、処遇に対する不満もあった。それは、江戸幕府開幕に功績のあった譜代家臣=三河武士の気持ちを代弁するものでもあった。
以上のような点を考慮すると、三河武士の思想的な観点を探るには有効な史料かもしれないが、歴史史料として用いるには注意が必要である。いかんせん、主観が多々あるように思われる。ほかの一次史料と突き合わせ、史実を確定すべきであろう。