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「サムライブルー」日本代表のユニフォームはなぜ青いのか?

斉藤健仁スポーツライター

2009年、愛称は「サムライブルー」に決定!

アテネ五輪前に、「なでしこジャパン」という愛称になったサッカー女子代表から遅れること5年、2009年10月19日、日本サッカー協会が、新しいエンブレムとともに、男子サッカーの新しい代表の愛称を発表。日本代表の青いユニフォームにちなみ「SAMURAI BLUE(サムライブルー)」となった。

「サムライブルー」よりも、愛称としては「サムライブルーズ」「ブルーサムライズ」「青きサムライ」なども考えられたが、なぜ“ブルー”という言葉がサムライの後に付いたのだろうか。少々理解に苦しむが、商標登録上の問題でもあったのかもしれない……。

実際に海外の新聞やサイトでは、日本代表の公式愛称である「ブルーサムライ」が誤解されているようで「Okada’s Blue Samurai」「Blue Samurai」という表現が頻繁に使われている。

ちなみに新しい愛称に関して、サッカー日本協会の公式発表は以下の通りだった。

FIFAワールドカップを戦う日本代表チームは、今後、チーム愛称を「SAMURAI BLUE」として、その誇りを胸に、全身全霊で戦っていくこととなりました。

「SAMURAI BLUE」は誇り高く、フェアに、そして、負けることをよしとせず勝利への強い思いを持って戦います。そこには、世界にも知られた、戦いの場に挑む日本人にオリジナルで高度なメンタリティが存在します。       

日本代表チームのチームカラーである「BLUE」。それは、「SAMURAI」の遺伝子の込められた「BLUE」であり、これこそが世界に伍して戦う日本代表チームのオリジナリティです。                   

日本代表チームは、「SAMURAI BLUE」として、同じメンタリティを共有するファン・サポーターという仲間たちとともに、戦い、世界を驚かせます。

1936年ベルリン五輪から日本代表は青だった

ところで「サムライブルー」という愛称に“blue”が使われているように、なぜ日本代表のユニフォームは青いのか。

実は、愛称の日本サッカー協会の発表の中にも“サムライの遺伝子が込められたブルー”とあったように日本代表の青は、サッカー界にとって伝統的な色だ。愛称の紹介文にあるとおり、サッカー日本代表の“DNA”の1つと言っても過言ではない。 

東京・文京区本郷にある日本サッカー協会のビルの地下にある、日本サッカーミュージアムに最古の日本代表のユニフォームが残されている。1936年のベルリン五輪時のものでも、襟と袖口のみ白だが青のユニフォームを着用していた。そう、ベルリン五輪といえば当時強豪だったスウェーデン代表を日本代表が3―2で破り、後に「ベルリンの奇跡」と称えられる一戦があった大会だ。

東大サッカー部のユニフォームに由来か

それではいつから青になったのか。

日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協会)自体は、1921年にイングランドサッカー協会(FA)から、イギリス大使館を通じて銀色のカップであるFA杯が届いたことを機に発足した(このFA杯は戦中、戦後の混乱の中で紛失してしまったとされている)。

だが当時の日本代表チームは、現在のようにいろんなクラブの選手が招集された混合チームではなく、まだ師範学校や大学のチームが中心となって構成された、ほぼ単独チームであった。そのため、例えば早稲田大学の現役とOBの混成チームで出場した国際大会には大学のスクールカラーである臙脂のユニフォームが着用されていたという。

1930年、東京の明治神宮外苑競技場にて第9回極東選手権が開かれ、初めてサッカー協会により、現在のような日本代表が文字通り“選抜”された。22人の構成は、東京帝国大学(現東京大学)から12人、早稲田大学と関西学院大学から3人ずつ、京都帝国大学(現京都大学)と慶應義塾大学から各1人だったという。

最初の日本代表チームは東京帝国大学のメンバーが中心であったため、東京帝国大学のサッカー部のユニフォームの色であった青(ライトブルー)を使用したと言われている。 

しかも、この大会で日本はフィリピンを7―2で破り、中華民国とは3―3で引き分け、中華民国と優勝を分け合ったものの、国際大会で初となる優勝を飾った。

もちろん、現在でも東京大学サッカー部(正式名称、東京大学運動会ア式蹴球部)のホームユニフォームはライトブルーである。公式HPのクラブプロフィールの欄には以下のような説明が載っている。

1918年、のちに大日本蹴球協会(現日本サッカー協会、JFA)創立に参画し同協会会長にも就任する野津謙(4代目会長)が東京帝国大学ア式蹴球部を創設しました。1922年に早稲田大学、東京高等師範学校(現筑波大学)、東京商科大学(現一橋大学)とともに日本初のサッカーリーグとなる専門学校蹴球リーグ戦を開始させると、1925年に現在の関東大学サッカーリーグの前身となるア式蹴球東京カレッジリーグに参加、第1回大会では早稲田大学に次ぐ2位となるものの、第2回大会から前人未到の6連覇を達成しました。第5回ア式蹴球全国優勝大会(現天皇杯)では大学チームとして初めて決勝に進出するなど、まさに黄金期を創出しました。現日本代表のユニフォームが青いのは当時多くの代表選手を輩出した東京帝大のユニフォームがライトブルーだったことに起因していると言われているほどです。

白や赤を経て再び「日の丸に一番映えるのは青」に

1931年には、三本足の烏(協会公式発表では八咫烏は使わない)が描かれたサッカー協会のシンボルマークが中心に施されている旗章がデザインされたが、カラスの背景には青が選ばれている。現在でもエンブレムに三本足の烏同様に、この旗章は現在も使用され続けており、青は青春を表すと説明されているが、年代を考えると青いユニフォームから取った色なのかもしれない。

その後、2度の大きな戦争を経験しても青いユニフォームは使用され続けた。

1964年の東京オリンピック時は青一色のユニフォームを着用していた。ただし、4年後の1968年、銅メダルに輝いたメキシコ五輪時だけは、なぜか真っ白いユニフォームを採用。だが、それでもパンツは紺であった。その後も日本代表のユニフォームは青だけでなく白となった時代もあったものの、白の時代でも青はワンポイントとして襟や袖に使用され続けていた。

1988年から1991年まで横山監督時代には、ユニフォームは日の丸にちなんだ赤が採用されたこともあった。だが、赤では日本代表の結果が出なかったため、1992年、川淵三郎氏(現日本サッカー協会最高顧問)は「日の丸に一番映えるのは青」と再び青いユニフォームに戻している。

デザイン変更こそ何度もされているが、現在に至るまで日本代表は青いユニフォームで世界と戦い続けている。

スポーツライター

ラグビーとサッカーを中心に新聞、雑誌、Web等で執筆。大学(西洋史学専攻)卒業後、印刷会社を経てスポーツライターに。サッカーは「ピッチ外」、ラグビーは「ピッチ内」を中心に取材(エディージャパン全57試合を現地取材)。「高校生スポーツ」「Rugby Japan 365」の記者も務める。「ラグビー『観戦力』が高まる」「ラグビーは頭脳が9割」「高校ラグビーは頭脳が9割」「日本ラグビーの戦術・システムを教えましょう」(4冊とも東邦出版)「世界のサッカー愛称のひみつ」(光文社)「世界最強のGK論」(出版芸術社)など著書多数。学生時代に水泳、サッカー、テニス、ラグビー、スカッシュを経験。1975年生まれ。

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