「死ねば楽になる」3.11から8年、半壊家屋に住み食べ物もないお年寄り 大量の食べ物を捨て続ける矛盾
2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災。あの日から8年が経つ。
当時生まれた子は8歳。4歳だった子は12歳になる。彼らは震災のことを覚えていないかもしれない。
震災を経験しない子どもたちが、将来の社会の中心となる。3.11を風化させてはいけない。
「死ねば楽になる」3.11から8年、半壊家屋に住み食べ物もないお年寄り
筆者は3月11日が誕生日。先日、講演でお世話になった方から、お祝いのメッセージと共に、3月10日に放映されたNHKの番組の感想が届いた。
番組では、8年が経ち、いまだ被災地で半壊家屋に住んでいるお年寄りが、日々の食べ物に困窮し、「死ねば楽になる」とつぶやく姿が紹介された。
だがその一方で、毎日、大量に廃棄される食べ物がある。
その方は、その矛盾に 「胸がつぶれる思いだ」と語っていた。
「家も家族もみんな流された」
筆者は誕生日(3.11)の震災を機に、主に宮城県石巻市へ食料支援に通った。その後、勤めていた食品企業の管理職を辞めて2011年秋に独立した。その後、3年間、セカンドハーベスト・ジャパンの広報を務める中で、食料支援を続けてきた。
福島県から避難し、旧騎西(きさい)高等学校の校舎に住んでいた年配女性を、今も覚えている。
2011年3月の震災直後は、この廃校になった校舎に1400名程度が避難していた。
その後、若い世代は他へ引越し、仕事を見つけるなどして、どんどん減り、2011年5月の炊き出し開始時には200名になっていた。
筆者は2012年5月から2013年12月までの2年近く、毎月一回、炊き出しに通っていた。
彼女が言った言葉は「家も家族もみんな流された」。
避難所の平均年齢は72歳程度。
福島県で食関係の商売をしていた方は、被災後、何もすることがなくなり、せっかくの調理技能を活かせず、やりがいや生き甲斐を無くしたまま、避難所で過ごしていた。
被災した方々が炊き出しの料理を運ぶのには、使い古しの段ボール箱を切ったものを使っていた。炊き出しが続く2年近くの間、ずっと。
食品関連企業は平成31年3月目標の農林水産省の食品廃棄物発生抑制を確認すべき
3.11から8年経ち、いまだに食料に困窮している方がいることを考えれば、作ったものをできる限り無駄にしてはならない。
実は、食品製造業やコンビニ・スーパー、飲食業界に対し、農林水産省が制定している食品廃棄の発生抑制の目標数値がある。だが、大手企業に食品ロスの研修へ行くと、驚くほど把握していない。幹部ですらご存知ではない場合がある。
食品製造業者は、廃棄が多くなれば自己負担が多くなるし、小売からの返品もあるので、減らす努力は続けている。
はたして、全企業がそうしているだろうか。
なぜ、今も、東京都民1300万人が一年間食べるだけの食べ物を捨て続けているのだろう。
企業を選んで食品を購入し、消費する消費者にも責任はある。
災害の頻発する昨今、非常食はもはや「日常食」 ローリングストック法で使い回していくこと
2018年は自然災害の多い年だった。
「非常食」という言い方はあるが、もはや、自然災害は日常的にどこかで起こっているとも言える。
農林水産省が専門家と共に制作した、災害時に備えた食品ストックガイドがわかりやすい。
乳幼児や高齢者、アレルギーを持った方向けには要配慮者のための災害時に備えた食品ストックガイドもある。
農林水産省の公式サイトからダウンロードできるので、ぜひ参考にして頂きたい。
3.11。
あの日以降、食べ物は、広範囲でとたんに無くなった。おにぎり1個を家族4人で分け合って食べていた人もいた。
食べ物の元は、命だ。
食べ物を捨てることは、その命を捨てること。
生きたかった命が犠牲になった、あの日を忘れない。
3.11忘れない Remembering 3.11
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