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詰めが甘かった!? 織田信長が長期にわたって大苦戦した武将など3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 政治でも経営でもスポーツでも、詰めが甘いというのが一番困る。織田信長は最強の戦国武将だったが、相手によっては長期戦になることがあった。そのうち武将など3つを取り上げて紹介しよう。

◎大坂本願寺

 信長が大坂本願寺と抗争を開始したのは、元亀元年(1570)のことである。これまで、信長が先に攻撃を仕掛けたとされていたが、それは逆であることが証明された。信長が宗教勢力の一掃を試みたという考え方にも、多くの疑問が投げかけられている。

 実は、途中で大坂本願寺は信長に和睦を申し入れ受諾されたが、しばらくして破談となっていた。大坂本願寺の強みは毛利輝元、足利義昭らとの連携にあったが、後述する天正8年(1580)の三木合戦で別所氏が降参し、しばらくして大坂本願寺も信長に屈したのである。

◎別所長治

 別所氏はもともと信長の配下にあったが、天正6年(1578)に叛旗を翻した。その理由は、信長から中国計略を任された羽柴秀吉とのトラブルにあった。同時に、別所長治は毛利輝元、足利義昭らと連携し、2年にわたる三木城での籠城に臨んだのである。

 三木合戦と言えば、兵糧攻めが有名であるが、さすがに2年余りも飲まず食わずでは戦えない。合戦の途中、毛利方は何度も三木城に兵糧の搬入を試みたが、そのうち何度かは成功したと考えざるを得ない。最後の数ヵ月は、ついに兵糧の搬入もかなわなかったのではないか。

◎武田勝頼

 信長は武田信玄と抗争を繰り広げ、劣勢に追い込まれることがたびたびだったが、信玄の死後は子の勝頼との戦いに臨んだ。天正3年(1575)、信長は長篠の戦いで勝頼に勝利した。しかし、武田氏は滅亡することなく、その後も7年にわたり存続した。

 長篠の敗戦後、勝頼は態勢を立て直していた。ところが、天正10年(1582)、木曽義昌が勝頼を裏切ると、その動きにならって武田氏の家臣から寝返る者が続出した。その結果、勝頼は天目山の戦いで自害して果て、武田氏は滅亡に至ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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