【九州三国志】天文の世、次男の旅路に家督あり!キリシタンの光と影、純忠の選択をめぐりて
有馬晴純の次男、大村純忠は、天文7年(1538年)、叔父・大村純前の養嗣子となり、家督を相続いたしました。
実子の又八郎を差し置いてのこの選択は、家中に波紋を広げ、純前の養子に出された又八郎は後藤貴明と改名することで、この運命を飲み込んだのでございます。
永禄の頃、純忠は貿易の利益を見据え、横瀬浦を開港いたしました。
これがポルトガル商人との結びつきを深め、領内には活気が満ち溢れたのです。
同時に、純忠はキリシタン信仰を受け入れ、家臣や領民とともに洗礼を受ける決断を下しました。
その信仰は熱心でありながらも過激で、寺社を破壊し、領民へ信仰を強いるなど、争いの火種を生む結果ともなったのです。
やがて反乱の風が吹き荒れます。
後藤貴明らの反乱により、横瀬浦は焼き払われましたが、純忠はこれを乗り越え、三城七騎籠りの激闘や長崎の発展へと尽力。
天正8年(1580年)には長崎と茂木をイエズス会に寄進する決断をし、その名を歴史に刻みました。
純忠が追い求めた信仰と繁栄、その道筋は波乱に満ち、光と影の両面を映し続けたのでございます。