【九州三国志】小鳥とともに幕を引く人生!キリシタン大名、大村純忠の最期
天正10年(1582年)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノとの出会いから、純忠は天正遣欧少年使節の派遣を決意し、甥・千々石ミゲルを名代として送り出しました。
しかしその裏には、波乱に満ちた領主としての人生がありました。
純忠は四人の息子を抱えながらも、龍造寺隆信の圧迫や親族の反旗に耐え抜き、なんとか領地を守り続けました。
その一方で、彼のキリシタンとしての信仰は熱心を超えて過激さを帯び、多くの衝突を生むこととなったのです。
晩年、咽頭癌と肺結核に侵された純忠は、病床で神父と来世の話に耳を傾け涙を流す日々を送りました。
そして死の前日、彼は捕虜200名を解放し、愛してやまない一羽の小鳥を空へ放つよう命じました。
この小鳥の解放をめぐって侍女と交わした言葉は、『フロイス日本史』にも記されています。
「小鳥はデウス様が作られたもの」と語った純忠の姿には、信仰と慈悲が込められていました。
1587年6月23日、坂口の居館にてその生涯を閉じた純忠。
彼の死はバテレン追放令の発令直前であり、歴史の一つの転換点となりました。
敬虔なキリシタンとしての姿と、打算的な大名としての一面。
その二面性こそが、彼を複雑で魅力的な人物にしています。