15mを5秒フラットで駆け上がれ。ようやく覚悟を決めた大政涼が世界選手権スピードで世界の強豪に挑む
この1年間でスピード種目の日本新記録更新は11度
「リードのジャパンツアー、今年は出んのやめるわ」
スポーツクライミングで国内最高峰の大会に位置する『ジャパンカップ』は、ボルダー(ボルダリング)、リード、スピード、コンバインド(ボルダー&リード)でそれぞれ開催されている。国際大会を戦う日本代表選考会である舞台に挑むには、シード権のない選手は開催前年に種目ごとのジャパンツアーで出場権を手にしなければならない。
今年2月に行われたボルダージャパンカップで29位、リードジャパンカップで38位。どちらの種目も2024年のジャパンカップに出るには今シーズンのリードとボルダーのジャパンツアー参戦が不可避だったなか、大政涼は春先に父親でコーチの亮二さんに冒頭の言葉を伝えた。
この決断は単に来年のリードジャパンカップへの出場を諦めるというだけではない。これは煮え切らずにいた大政涼が、ようやく本気でスピード種目に取り組む覚悟を持ったことを意味していた。
スピード種目の日本男子のレベルは目覚ましい進化を遂げている。日本記録が5秒台に突入したのは2021年のことで、楢﨑智亜がマークした5秒72だった。それを2022年4月に安川潤が5秒69に塗り替えると、そこからの1年4カ月間で11度も更新された。内訳は、大政涼が6回、安川潤が5回。そして現在の日本記録は、今年6月4日に大政涼がマークした5秒143になっている。
ちなみに、日本国内でのスピード種目は、東京五輪での実施種目になったことで2017年から取り組みが始まった。この年にイランのレザ・アリポワ・シェナザンディファルドが5秒48の世界新記録(当時)を樹立し、日本記録は2018年6月で楢﨑智亜が6秒87。当時は世界トップとのタイム差は1秒以上もあった。
大政涼を本気に変えた今年3月のスピードジャパンカップでの惨敗
冒頭で紹介した言葉によって周囲に覚悟を知らしめた大政涼だが、のんびり屋がようやく気持ちを固めたキッカケとなったのが、今年3月12日に千葉県幕張総合高校で開催された第5回スピードジャパンカップでの惨敗にあった。
2022年シーズンにスピードW杯ヴィラールで自身初めてとなる日本新記録をマークすると、翌週のスピードW杯シャモニーでも日本新記録を更新し、16人で争う決勝トーナメントに初めて進出した。そして、7月30日に地元愛媛県で開催された『母恵夢カップ第2回スピードスターズ選手権』で日本新記録を5秒422まで伸ばしていた。
急成長を遂げる大政涼が、パリ五輪前年の今シーズンのスピードジャパンカップでメディアから高く注目されるのは必然のこと。そのなかで大政涼は大会でのベストタイムが5秒722と、自己ベストからコンマ3秒も及ばないなど低調なパフォーマンスで5位に沈んだ。
競技後のミックスゾーンで心境を尋ねられた大政涼は、うつむき、押し黙ったままだった。時間にすれば3分ほどのことだが、選手が入れ替わり立ち替わり取材を受け、テキパキと答えていく状況下にあっては異例の光景だった。
「すみません、なにも浮かばなくて……」が、気持ちの整理が追いつかず、言葉を探しても見つからないなかで、ふり絞った言葉だった。
スピードジャパンカップより前に行われたボルダージャパンカップやリードジャパンカップにも挑んでいた大政には、「1種目に絞る気はないのか?」との質問も飛んだ。記者にすれば、凡庸な成績のボルダーとリードのトレーニングに割く時間をスピードのために使っていれば、結果は違ったのではないかと考えたのだろう。これに対して大政はこう答えている。
「ボクにとっては3種目やるのが当たり前やったし、ボルダリングもリードもスピードも強くなりたい。それだけだったし、どれかひとつを諦めるってのは考えられんくて」
小学生の頃にクライミングを始め、ボルダーとリードでユース年代の全国大会の常連になった。2016年に東京五輪の実施が決まり、2017年からスピード種目が加わって強化の一環と位置づけられると、多くの日本選手たちがスピードにいやいやながらも取り組んできた。だが、大政は1種目増えたことを素直に受け入れ、そこでも結果を出そうと真剣に向き合ってきた。
東京五輪後、スピード元日本記録保持者の楢﨑智亜はパリ五輪出場に向けてボルダー&リードに重点を置き、ほかの多くの選手たちもスピード種目とは距離をとった。そうしたなかでも大政涼はスピードに、ボルダーやリードと同じような熱量で取り組み続けてきた。その努力が2022年に実を結んだだけのことだった。
この大会を制したのはライバルの安川潤だった。今年1月に5秒40をマークして大政涼からふたたび日本記録を奪い返した安川は、予選から安定して5秒台を連発。大政涼が予選で5秒72の1本だけだったのに対し、安川潤は予選、決勝トーナメントの1/8決勝、1/4決勝、1/2決勝、決勝戦とすべてのラウンドで5秒台をマークした。
判然としたライバルとの差。大政涼はスピードジャパンカップの結果に茫然自失となった。大会後は父親の亮二さんとフィジカルコーチを担う小田佳宏氏と食事に出かけた席で、小田コーチから「涼がやりたくない気持ちがあるなら、スピードはやめてもいいと思うよ。決めるのは涼だよ」と肩を叩かれた。真意を小田コーチは次のように明かす。
「涼がスピードでパリオリンピックを目指すためには、やっぱり本人の気持ちがそこに向かっていないとダメなんですよね。いままでは余白が多かったから、トレーニングを積めば成果が出やすかった。でも、ここから先の世界は、いままで以上に気持ちを入れてトレーニングの段階から競技に取り組んでも結果につながらないことが多い。行けるかどうかわからないパリ五輪のために、気持ちを押し殺すのか、優先させるのか。それとも期間を決めて踏ん切りをつけて取り組むのか。まずは涼にそこを考えてもらいたかった」
スピード種目へ覚悟を持って臨みはじめた大政涼が4月から躍動
翌週3月19日に行われた地元での『母恵夢カップ第3回スピードスターズ選手権』に出場した大政涼は、大会でのベストタイム5秒501で3位。翌週3月26日は『第2回千葉カップ』でふたたび幕張総合高校へ出向き、5秒422を出して1位になった。大会を重ねながら5秒台を取り戻したものの、大政は「ほかの選手たちのパフォーマンスに危機感を覚えた」ことで決断を下した。
大政涼は、世界選手権のボルダー&リード種目の日本代表を決めるコンバインドジャパンカップへの出場も可能だったがエントリーを見送り、同日に福岡県で開催されるスピード種目の『にしけいカップ』への出場を決めた。そして、冒頭の言葉を父親へ告げたのだった。
果たして、4月8日のにしけいカップでは自身5度目となる日本新記録5秒310をマークしたが、安川潤も5月8日のスピードW杯ジャカルタで5秒22の日本新記録を樹立。大政涼も負けじと1カ月後の6月4日に日本新記録を再度更新。さらに7月2日のスピードW杯ヴィラールでは予選15位から決勝トーナメントを勝ち上がり、3位となって日本選手として初めてスピード種目でW杯の表彰台に立った。
春先からの大政涼のフィジカル的な変化を、小田氏はこう語る。
「涼のトレーニングを担当するようになったのが2019年頃からで、コロナの影響もあったけれどオンラインで一緒にトレーニングをしながら、ようやく今年の4月から次のステップに突入したところなんですよね。フィジカルのベース部分を反復して高められたので、いまは次の次元に行くためのトレーニングもやっていて。それを競技にリンクさせることができれば、まだまだ涼は伸びていくと思いますよ」
スピード種目の世界選手権で手にできるパリ五輪枠は上位2名
スイス・ベルンで開催されているスポーツクライミング世界選手権は、8月10日にスピード種目の予選と決勝トーナメントが実施される。大政涼、安川潤など男女10選手が挑む。
スピード日本代表
[男子]
大政 涼(松山大学)
安川 潤(早稲田大学)
田渕 幹規(上宮高等学校)
藤野 柊斗(東洋大学)
竹中 翔(岐阜県山岳連盟)
[女子]
林 かりん(鳥取県山岳・スポーツクライミング協会)
竹内 亜衣(千葉市立千葉高等学校)
河上 史佳(鳥取県山岳・スポーツクライミング協会)
林 奈津美(奈良県山岳連盟)
金谷 春佳(鳥取県山岳・スポーツクライミング協会)
大政涼と安川潤のふたりで日本記録を争いながら国内のレベルを押し上げてきたが、この間に世界のレベルも格段に高まっている。
レザ・アリポワ・シェナザンディファルドが2017年につくった5秒48の世界記録が塗り替えられたのが、2021年5月。インドネシアのヴェドリク・レオナルドが5秒25を叩き出して止まっていた針を動かすと、まるで大政と安川のように、同胞のキロマル・カティビンと競いながら世界記録を塗り替え合う。その数、実に9度。現在の世界記録は、ヴェドリク・レオナルドが今年4月28日に樹立した4秒90になっている。
世界選手権スピード種目は、上位2名がパリオリンピックへの出場権を手にできる。ヴェドリク・レオナルド、キロマル、カティビンのインドネシアの両雄に加え、高い実力を持っている中国勢もいる。世界的に見て2強のタイムは抜きん出ているが、果たしてタイム通りの結果になるかは興味深い。
大政にしろ、安川にしろ、決勝トーナメントに進出する可能性はあるものの、現状の持ちタイムだけを比較すれば勝ち上がっていく力はまだないだろう。しかし、スピード種目はタイムレースではなく、決勝トーナメントはゴールに先着したほうが勝者。決勝に進むことができれば、何が起きても不思議ではない。たとえ負けたとしても、先々を見据えたときに世界選手権での経験は生きてくるはずだ。
来年5月からの五輪最終予選5枠に入るための理想のシナリオとは
彼らの挑戦を見守る者は、世界選手権の行方は最後まで見届けてもらいたい。なぜなら、日本選手がパリオリンピックに出場する可能性が、世界選手権の結果次第で大きく変わるからだ。
スピード種目でパリオリンピックに出場できる選手数は男女各14名。世界選手権枠が2人、開催国枠が1人、スポーツクライミング後進国枠が1人、大陸予選優勝者枠が5人。そして残り5枠は来年5月から始まるオリンピック予選シリーズのポイント上位5選手で争うことになっている。
パリオリンピックのスポーツクライミングは1種目につき男女それぞれ1カ国2名の規定がある。仮に男子スピード種目で、インドネシアが世界選手権でヴェドリクとキロマルで2枠を確保すると、その後の大陸予選で優勝したとしてもインドネシアの選手は五輪切符は手にできない。インドネシアと双璧の力を持つ中国が、順当に考えればアジア大陸予選優勝者1枠を手にするだろう。もちろん、大政涼や安川潤が世界選手権や大陸予選で出場権を手にするのがベストではあるが。
これが日本代表にとってはパリオリンピック出場の扉を大きく広げる理想的なシナリオでもある。なぜなら世界的に見てスピード種目でインドネシアと中国は頭ひとつ抜けた存在だが、それ以外の国々と日本勢に力の差はさほどないからだ。来年5月からのオリンピック予選での5枠に、インドネシアや中国の選手がいなければ、大政涼や安川潤が食い込む余地は十分にある。そうした目線からも世界選手権スピードに注目してもらいたい。