スピードスケート高木美帆 “10年来の恩師”青柳徹氏が語る「成長の過程と強さの秘密」
■世界距離別選手権での通算獲得メダル数は史上最多
オランダで開催されたスピードスケート世界距離別選手権(3月3日~5日)の女子1000mと同1500mで、日本のエース・高木美帆(日体大職員)がいずれも銅メダルを獲得した。この大会での高木の通算獲得メダル数は11個となり、清水宏保を上回る史上最多となった。
高木はこれまでに世界オールラウンド選手権と世界スプリント選手権でも金メダル2個を含む通算6個のメダルを手にしているほか、3度の五輪で金2、銀4、銅1、合計7個のメダルを獲得し、全競技を通じて日本の女子選手史上最多を誇っている。
ナショナルチームを離れて個人で強化する体制を取り入れた今季は、環境の変化に苦労しながらもシーズン最後の大舞台でしっかりと表彰台を確保した。
中学3年生だった2010年2月のバンクーバー五輪に出場してから13年。速くてタフなスーパーエースは、どのようにして進化を遂げてきたのか。
2013年4月に高木が日本体育大学に入学してから10年間にわたって指導してきた青柳徹日本体育大学教授に、知られざる成長の過程や強さの秘密を聞いた。
■フィジカルの進化
「この10年、高木の心技体の中で大幅に変わったと言えばまずはフィジカルです」と青柳氏は言う。フィジカルが進化していった理由としては「食事の意識が高くなったこと」を挙げる。
高木は中学3年生で代表選考会を勝ち抜き、五輪に出場した伝説的な“天才少女”。高校時代の成績を見ると足踏みの兆候はあったものの代表入りを外すことはなく、高木の当時の座右の銘である「成せばなる」という考えの下で自然体の食生活を続け、好物のスイーツも特に制限をすることなく食べていた。
しかし、それではトップアスリートに必要な身体を作ることができなかった。
こうして迎えた2013年12月のソチ五輪代表選考会。当時、日体大1年生だった高木は代表入りに届かず、そこで考えを改めた。すべてを一から見直し、食生活も改善。スイーツ断ちを決めた。
同時に大学2年生の夏から始まったナショナルチームでの練習では、厳しいトレーニングメニューが課され、体力面の数値もどんどん上がっていった。高木のフィジカルは、食事面での意識改革とナショナルチームでのハードワークによって大幅に向上した。
■テクニックの変化
中学生で五輪に出たことが物語るように、ジュニア時代から高木のスケーティング技術の高さは図抜けていた。
だが、青柳氏の目には、まだ伸びていける改善ポイントが見えていた。高校時代までの高木は、ストレートを滑走する際の右アウトエッジの踏み込みが不足していたのだ。
ただ、高木が日体大に入学したのはソチ五輪シーズン。選考会まで時間がない中でフォームの改造を行うのはリスクが大きく、青柳氏はソチ五輪前のタイミングで着手することは不可能と判断した。
結局、足踏み状態から抜け出せなかった高木は実業団勢の後塵を拝することになり、ソチ五輪の出場権を逃すことになった。
一方で、ソチ五輪の結果は日本のスピードスケート界にとって深刻な問題に真正面から向き合う必要性を突きつけた。日本は男女を通じてメダルゼロ。改革を迫られたスケート連盟は、それまで企業や学校単位で強化してきたスタイルの行き詰まりを打ち砕くべく、ナショナルチームを発足し、メダルへの距離が近いチームパシュートを重点強化するという戦略を打ち立てた。
これは連盟の強化スタッフでもある青柳氏にとっても合点のいく施策であり、高木をナショナルチームへ送り出すことを決めた。
2014年夏から始動したナショナルチームでは、前述した通り連日ハードなメニューが選手たちに課され、食生活の改善との両輪で高木のフィジカル面が向上。筋力が不足していた股関節回りやお尻回りが強くなっていくと、それと歩調を合わせるようにスケーティングのテクニックも改善していった。ストレートの滑走時に不足していた右アウトエッジでの踏み込みが強くなり、スピードが上がったのだ。
ナショナルチームに送り出してからの高木の滑りを見て、青柳氏は改善ポイントとみていた技術を身につけていることに胸をなで下ろした。
■意識、心は…
多種目へ果敢にチャレンジする姿からは想像しにくいが、高木は自他共に認める「変化を好まない性格」の持ち主だ。アスリートにとってブレない心は大事。けれども時にはその頑固さが成長の妨げになることもある。
高木が大学1年生の夏の出来事で青柳氏の心に強く残っていることがある。新しい靴が届いた時、「硬くてしっくりこないので、もっと柔らかい靴にしたい」と高木が申し出た。「前のものが柔らかかったから戻したい」というわけだ。
スピードスケートは年を追う毎に進化を遂げており、記録はどんどん縮まっている。つまり、滑走スピードはどんどん上がっている。そのため近年は、より高い出力を氷に伝えるため、トップレベルの選手は硬い靴を選ぶのがセオリーとなっている。
柔らかい靴に戻したいという高木の選択は進化から逆行していた。しかも理由は「前から履いているから」という保守的なことだった。
結局、高木は柔らかい靴に戻してシーズンを迎えたものの、ソチ五輪の選考会で敗れることになった。強く踏み込むことができず、ハイスピードに対応出来なかったのだ。
それから数カ月。ソチ五輪が終了した後の2014年2月末にオランダ遠征に行った際、高木は硬い靴を作ると自ら申し出た。
硬い靴は柔らかい靴に比べて操作は難しいが、より高いパフォーマンスを引き出すことが可能だ。高木が自分の中にある固定観念を捨て、進化への一歩を踏み出した瞬間だった。
青柳氏はこのように言う。
「技術と身体は相互的に密接な関係にあって、技術が高まればその技術に見合った体力が必要になってきて、体力が向上したら、その体力を使いきれるだけの技術が必要になる。そして、それを支えているのが心。だから、心なき者がどれだけ高めようとしてもダメなんです。今の高木は心技体が三位一体になっている。それこそが高木のたぐいまれなる才能です」
ソチ五輪の舞台に立つことができなかった高木は、2018年の平昌五輪までの4年間は何が何でもスケートに全身全霊を懸けて打ち込むという覚悟を据えて再スタートした。
青柳氏は「高木が平昌五輪に向けて覚悟を決めたのは、良くも悪くもソチ五輪に行かなかったから」と言う。4年間の学生時代にたった一度しかない五輪に出られなかったのは痛恨だが、これこそが希代のアスリートとなっていくための契機であり通過儀礼でもあった。
■物足りなかった今季
覚悟を持って挑んだ2018年平昌五輪で、高木は金銀銅メダルを獲得した。中でも姉の菜那とも力を合わせて一緒に滑った女子チームパシュートで金メダルを手にしたことは何にも代えがたい喜びだった。
「次は個人種目の金メダルを」
高木は新たな覚悟で2022年2月の北京五輪に挑み、女子1000mで悲願の個人金メダルを獲得した。個人で表彰台の真ん中に立ったことは格別のうれしさだった。
けれども、敵なしとみられた女子1500mではまさかの銀メダルに終わった。五輪でやり残したことはまだある。1500mの金メダルは4年後のミラノ・コルティナダンペッツォ五輪に向けて大きなモチベーションだ。
高木は北京五輪の後、自分の思いとじっくり向き合って現役続行を決意した。そして今シーズンの始動時には、2014年夏から加入していたナショナルチームを離れ、ヨハン・デビットコーチとタッグを組んで「Team MIHO」を発足。新体制で個人種目のさらなる強化に打ち込んできた。
トレーニングではナショナルチームと合同で行ったり、時には青柳氏のヘルプを受けたりすることもあったが、基本的に練習は1人。デビットコーチが不在の時はオンラインでの指示となるなど、身体のケアや移動なども含めて自分で考えなくてはならない部分が必然的に増えた。
元来の高木はとてつもない集中力の持ち主。集中モードの度合いによって周囲の人が近づける距離感を自在にコントロールでき、ひとたびスイッチが入れば声を掛けることをためらうオーラを放つ。
ところが今シーズンの高木はこれまでと違い、「“没頭しきれていなかった”という印象だ」と青柳氏は指摘する。
「高木は今シーズンを経験したことによって、ナショナルチームという、スケートのことだけに没頭できる環境は代えがたいものであり、改めて個人強化の大変さを痛感したと思う。でもそれは今後へ向かう意味でも必要不可欠な経験だった。来シーズンに向けては、もう一度、没頭していけるような環境作りをしていくと思う」
2013年から十年という一区切りのタイミングで、青柳氏は高木にさらなるエールを送った。