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気候科学者の受難(マイケル・マン氏の裁判から振り返る)

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授
(写真:アフロ)

米国の気候科学者マイケル・マン氏(ペンシルバニア大学教授)が裁判で勝訴したというニュースがありました。この裁判は、マン氏が保守派の論客2人を名誉棄損で訴えていたものです。

マン氏は二〇〇〇年頃から始まる「ホッケースティック論争」以降、政治的な対立に巻き込まれてきました。今回は、その論争を振り返り、気候科学への党派的攻撃について書きます。

ホッケースティック曲線

マン氏は、一九九八年九九年の論文で、過去数百年~千年の北半球の樹木の年輪のデータを解析しました。樹木は暖かい年によく成長するため、年輪の幅は過去の気温を推定するための代替指標として用いられます。

マン氏の研究の当初の目的は、過去の気候の自然の変動を解明することでした。しかし、結果として得られたグラフは、二十世紀の気温の上昇が、過去の自然の変動の範囲を明らかに超えた例外的なものであることを示していました。

このグラフは、変動の小さい過去の期間と二十世紀の急激な上昇をアイスホッケーのスティックのシャフトとブレードにそれぞれ見立てて「ホッケースティック曲線」とよばれるようになりました。そして、二〇〇一年公表の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第三次評価報告書の要約でハイライトされ、人間活動が地球温暖化を引き起こしている証拠として注目を集めました。

過去1000年の北半球平均気温変化(IPCC第3次評価報告書 政策決定者向け要約 Figure 1b)
過去1000年の北半球平均気温変化(IPCC第3次評価報告書 政策決定者向け要約 Figure 1b)

クライメイトゲート事件

すぐさま、ホッケースティック曲線は、地球温暖化が人間活動によるものだと認めたくない(あるいは、人々がそう信じることを妨害したい)保守派の論客の標的になりました。

批判者たちは、マン氏のグラフが「中世温暖期」や「小氷期」といった歴史的に知られた気温変動を過小評価しており、データ処理の統計手法等に問題があるという疑惑を投げかけました。

そんな中で二〇〇九年に起きたのが、(大きなスキャンダルという意味でウォーターゲート事件になぞらえて)通称「クライメイトゲート事件」とよばれた、英国イーストアングリア大学のメール流出事件です。

この事件では、マン氏を含む研究者のやり取りした電子メールのデータが大量に盗まれて公開されました。その中から、研究者が年輪から復元した気温データの「下降を隠す」ために「トリック」を使う相談をしたと疑われるメールが文脈から抜き出されて注目され、研究者のデータ改ざん疑惑として騒動になったのです。

その後、英国議会、イーストアングリア大学等でいくつもの独立調査委員会が設置されて調査が行われましたが、いずれの委員会も、科学的な不正は無かったことを結論しています(「下降を隠す」ための「トリック」は、単にグラフの作図方法の相談であり、データの改ざんではありませんでした)。

一方で、メールを盗んだ犯人は未だにわかっていません。二〇〇九年は、コペンハーゲンで国連気候変動枠組条約の締約国会議COP15が行われ、京都議定書の次のルールが話し合われる重要な年でしたが、流出したメールはその会議の直前に、まるで会議を混乱させることを意図したようなタイミングで公開されています。

度重なる攻撃とマン氏の反撃

流出したメールにより生じた疑惑に基づいて、二〇一〇年には、保守主義者であったバージニア州の司法長官が、マン氏が州の助成金を使用した研究で詐欺を行ったなどの疑いを主張し、当時マン氏が勤務していたバージニア大学に対して、マン氏の勤務に関する膨大な資料の提出を要求する調査請求を行いました。

これはマン氏や大学に対する悪質な嫌がらせであるだけでなく、研究者コミュニティー全体に対して、保守派を刺激する研究を踏みとどまらせる委縮効果をもたらしうる行為でした。請求は裁判所により棄却されましたが、マン氏の研究活動を妨害する目的はそれなりに果たしたことになるでしょう。

データ改ざんの疑いが晴れて以降も、攻撃は止みませんでした。二〇一一年には、保守派の論客ティム・ボール氏が「マン氏は(当時勤務していた)ペンシルバニア州立大学ではなく、州立刑務所にいるべきだ」と発言し、マン氏はこれを名誉棄損で訴えました(この裁判は、マン氏側による遅延などの理由で二〇一九年に却下されました)。

二〇一二年には、やはり保守派の論客のランド・シンバーグ氏が、(当時ペンシルバニア州立大学のフットボールコーチが起こした児童性的虐待事件になぞらえて)「マン氏は児童を性的虐待する代わりにデータを性的虐待し拷問した」と発言し、別の論客マーク・スタイン氏がこれを引用しました。

今回判決が出た裁判は、このシンバーグ氏とスタイン氏をマン氏が名誉棄損で訴えていたものです。判決では、被告側に合計一億円以上の懲罰的損害賠償の支払いが命じられました。

ホッケースティックのその後

一連の論争と今回の判決についての筆者の受け止めを書く前に、ホッケースティック曲線がその後科学的にどう評価されたかを見ておきましょう。

IPCCの第四次(二〇〇七年)および第五次(二〇一三年)の評価報告書では、ホッケースティック曲線が報告書の要約に登場することはありませんでした。しかし、その間にこのテーマには多くの研究グループが参入し、異なるデータ、異なる統計手法を用いて研究が繰り返されました。

二〇一九年には、この分野の世界中の研究者が参加するコンソーシアム(PAGES2k)による、利用可能なすべてのデータを使い、複数の統計手法を用いた決定版ともいえる研究が発表されました。その結果は、一九九九年に発表されたマン氏のものと基本的に変わらないホッケースティックの形状を示していたのです。

二〇二一年に公表されたIPCCの第六次評価報告書では、この最新のホッケースティック曲線が再び要約でハイライトされました(ただし、二〇〇一年のときは対象地域が北半球のみ、期間は過去千年だったものが、今回は地球全体、過去二千年以上にバージョンアップしています)。ちょうど二十年の時を経て、ホッケースティック曲線がIPCC報告書の要約に返り咲いたのは感慨深いです。

西暦1年からの世界平均気温変化(IPCC第6次評価報告書 政策決定者向け要約 Figure SPM.1a)
西暦1年からの世界平均気温変化(IPCC第6次評価報告書 政策決定者向け要約 Figure SPM.1a)

ハンデを負った闘い

筆者は十数年前にマン氏とある会合でお会いし、一度だけ短い会話を交わしたことがあります。

筆者は以前から思っていたことを、こんなふうに言いました。

「気候変動懐疑論者との闘いはプロレスの試合みたいじゃないですか。悪役レスラーは反則し放題で、凶器も使う。一方こっちは反則無しで闘わないといけない。」

マン氏は「おお、そう思うかい?」と応じ、共感する表情を浮かべたように記憶しています。

実際のところ、批判者たちの攻撃は凶器になり得ます。保守系メディアで主要な論客が放つ主張は、価値観や利害を同じくする人々に「気候変動はやはり科学者の捏造だった」と信じ込ませるだけでなく、その人々を動員して標的となった科学者に殺害予告を含む大量のヘイトメールを送らせる効果をもち、科学者や家族や同僚のメンタルに深刻なダメージを与えると同時に、時間を奪い、仕事を妨害します。

それに対して、標的となった科学者側は、いくら相手の主張の欠陥を鋭く指摘して皮肉ってやりたい衝動にかられても、同じような品の無いやり方で報復するわけにはいきません。

マン氏の採った訴訟という選択は、それはそれでメンタルと時間を消耗する覚悟が要りますが、正当な反撃方法であり、それによって勝ち取った今回の勝訴には大きな意味がありました。

党派的な論争は続く

ホッケースティック曲線に対する批判派の科学的な認識はいかなるものでしょうか。

本当に科学者がデータを改ざんしており、気候変動の科学は疑わしいと心から信じているのでしょうか。もしくは、本当はそう思っていないけれども、気候変動対策を遅らせるための戦略としてそう主張しているだけでしょうか。あるいは、リベラルなアジェンダには無条件で反発するのであって、科学的な認識などどうでもよいのでしょうか。

それぞれの論客によって違うでしょうが、どれもあり得ると思います。もしかしたら一人の論客の心理の中でも、これらが入り混じっているのではないかと想像します。

日本のSNSを見ていても同様なクラスタの存在を感じますが、日本における気候変動に関する党派的な論争は米国ほど苛烈ではなく、筆者を含めて日本の気候科学者が深刻な攻撃を受けたという話は聞きません。

もちろんこのような問題は気候科学の分野に限ったことではありません。コロナ禍においてワクチン接種を奨励する専門家や医師に対する反ワクチン派からのSNSでの脅迫などの攻撃が、米国その他の国だけではなく日本でも深刻な問題になりました。他にもSNSでのヘイトの問題が様々なテーマに及んでいることは言うに及びません。

米国ではマン氏の勝訴が分野を問わず専門家への党派的な攻撃をある程度抑止する効果をもたらすことを期待する声があがっています。

しかし、大統領選の共和党予備選でのトランプ氏の躍進(初出原稿執筆当時)を見ていると、米国社会の党派性の極端化は衰えを感じさせず、なかなか楽観的な気持ちにはなれないところです。

(初出:岩波『世界』2024年4月号「気候再生のために」)

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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