「男優賞」「女優賞」の区別は、なくなるのか
「男優賞」「女優賞」の区別は、過去のものとなるのか?ベルリン映画祭の大胆な決断が、論議を呼んでいる。
ベルリン映画祭は、毎年2月に行われる、世界三大映画祭のひとつ。来年も2月11日から21日にかけて開催されるが、この回から、これまでの「男優賞」「女優賞」を廃止して、「主演賞」と「助演賞」に変更されることになった。映画祭のディレクターは、「性別で区別をすると、映画業界がジェンダー問題に意識を高めることを妨げてしまう」と理由を述べている。
しかし、これが俳優たちにとって本当に良いことなのか、またほかも取り入れるべきなのかどうかは、微妙なところだ。過去に比べれば少しはましになってきたものの、伝統的に、とりわけハリウッド映画においては、男性が主役で、女性はその補佐的な役割にされることが多い。つまり、見せ場のある役は、たいてい男性に与えられるのだ。スポーツの競争でもないのに、わざわざ「男」と「女」が分けられているのは、女性も同じ数だけ候補入りできるようにする意味があるのである。もしも分かれていなければ、候補者が男だらけになってしまった年は、たくさんあっただろう。また、男女をひとくくりにしてしまうことで部門が減り、受賞者の数が半減してしまうという根本的な問題もある。
とはいえ、ベルリン映画祭では、これまで「男優賞」「女優賞」のふたつだったものが「主演賞」と「助演賞」になるので、受賞者の数自体は、減らない。これまで男性ひとり、女性ひとりと決まっていたものが、もしかしたら女性ふたり、あるいは男性ふたりになるかもしれないということだ。そしてベルリンの賞は、大勢の投票ではなく、審査員が話し合いで決めるので、男女ひとりずつにしよう、なるべく女性にあげよう、などという配慮ができる。もちろん、それはそれでまたポリコレだ、逆差別だという批判が起きるかもしれない。
だが、投票で決まるオスカーでは、そうはいかない。映画アカデミーは、多様化を目標に掲げ、実際にその努力をしているところで、男女をひとくくりにした結果、候補者がほとんど男性になってしまった、などということになれば、目も当てられない。彼らはすでに、男女の区別がない監督部門に女性がほとんど食い込まないことで相当に批判を受けているのである。また、主演男優部門、主演女優部門、助演男優部門、助演女優部門の候補者はそれぞれ5人ずつで、合計20人いるが、性の区別をなくした結果10人になれば、有色人種の役者が入るチャンスも、それだけ減ってしまう。さらに、3時間半に及ぶオスカーの授賞式中継で、一番華やかなのは演技部門なのに、そこが減れば、一般視聴者にとってますますおもしろくないものにもなり得る。そうでなくても視聴率が低下しているところに、このアイデアをあえて取り入れるのは、得策ではない。
ただし、今のままで行くかぎり、彼らはやがて別の問題に直面することになるかもしれない。新しい世代の中には、「ジョン・ウィック:パラベラム」に出演したエイジア・ケイト・ディロンのように、“ノンバイナリー・ジェンダー”をうたう役者が出てくるかもしれないからだ。トランスジェンダーは、彼らが選んだほうの性で認めてあげれば良いが、ノンバイナリーの人たちは、どちらの性にも所属しないことを選ぶ。ディロンも、「he」「she」で呼ばれるのも嫌い、本来は複数形である「they」で呼ばれることを好んでいる。
過去にディロンは、批評家選出テレビ賞に「助演男優(ドラマシリーズ)」部門で候補入りしている。この時も、賞の主催者の間では、いくらかの話し合いがなされたことだろう。ジェンダーについての問題は、すでに、映画業界でも、かなり意識が強まっている。そこにさらなる一石を投じたベルリン映画祭は、その決断自体が、認識を強める役割を果たしたと言っていい。今後、これが主流になるのかどうかはさておき、彼らの試みにはすでに意義があったのではないだろうか。