子供か愛人かなら、子供を捨てる。それが不倫。サン・セバスティアン映画祭の問題作2本
「今朝、読みましたか?」「えへへへ。いやー、いいね」
始業前のおっさん同士の会話である。
何を読んだのか? 日本経済新聞に連載されていた『失楽園』(渡辺淳一)だ。上司のニヤついた顔を今でも覚えている。
90年代半ばに、不倫ブームというのがあった。新聞連載にあるまじき「過激な性描写」とかで、まず日経を読むのが日課のおっさんが虜になり、次に映画化され「スタイリッシュな映像」とかで女性ファンが殺到した。
今は不倫叩きがブームだが、不倫に憧れる男女が続出した時代もあったのだ。しかも、そんな昔のことではない。
憧れるにしても叩くにしても、不倫は日常によくある非日常(あってはいけないもの)なので作品の題材になりやすい。スペインのサン・セバスティアン映画祭では『パッション・シンプル』(Passion simple)と『スパガット』(Spagat)がそうだった。
名作3作に見る「家族が可哀想」
「家族が可哀想だろ!」というのが、不倫糾弾のための最強の最終兵器だろう。これには「その通り」とうなだれるしかない。特に子供。
夫や妻には大人の事情があるのかもしれないが、子供は完全に無垢で無実である。
しかし、不倫の当事者というのはしばしば子供ですら捨てるのだ。
『不実の愛、かくも燃え』(監督リブ・ウルマン)でも『キャロル』(監督トッド・ヘインズ)でも『女と男の観覧車』(監督ウディ・アレン)でもそうだった。愛人か子供かと、二者択一を迫られるシーンが必ずあり、これも必ずと言っていいほど、愛人を取る。
この3作の主人公が「不倫女性」であって「不倫男性」でないことは偶然ではないだろう。
母の愛は海よりも深い、という言葉がある。子と父よりも子と母の方が一般的に絆が強い。母なのに愛人を選ぶ、という設定の方が、愛の怖さ、不倫の怖さがより際立つ。
人は愛のために人の道を外れる
不倫による離婚であれば子の親権は奪われるのが普通だが、それは愛の障害にはならない。
20年ほど前に『不実の愛、かくも燃え』を見て、ひとしきり涙を流した後に喜々として愛人のもとへ向かう主人公に、ショックを受けた経験がある。
愛とは素晴らしいもの、とだけ信じていた私はうぶだった。愛は素晴らしいが、怖いものだ。愛は強くて、道徳や倫理なんて破壊してしまう。
人は愛のために人の道を外れさえするのだ。
『キャロル』の予告編には、「心に従って生きなければ人生は無意味よ」というセリフが出て来る。それはもの凄く正しいのだが、人の道からすると正しくない。
『女と男の観覧車』は、不倫による子捨ての最も残酷な形を見せてくれた。
やはり子を持つ女性が主役だった2作
さて、『パッション・シンプル』と『スパガット』も子供を持つ女性が主人公である。
彼女たちはもちろん子供を愛しており、子供ともうまくやって行こうとはしているのだが、子供か愛人か、と究極の二者択一を迫られたら、どうしても子供の分が悪くなる。恋路を邪魔する者、うとましい存在となってしまうのだ。
『パッション・シンプル』は「単に情熱」という題名にふさわしいシンプルさ。テーマ曲も「オンリー・ユー」で、そのまんまである。
不倫には、背徳であるゆえにベッドで燃え上がる、という側面もあり、それが冒頭のおっさんたちの反応を呼んだわけなのだが、この作品はそのことをあからさまな映像で何度もしつこく見せてくれる。これは“そんなことはわかっとらい!”という向きには、“で、だから何?”という反応になってしまうだろう。
主人公がフェミニズムを教える女教師という設定は皮肉なのか、リアリズムなのか。監督は女性である。
『スパガット』はもう少し複雑。主な舞台が学校で子供たちがお飾りでないのが良い。大人たちのお楽しみに子供たちが犠牲になる様子が丁寧に描かれている。
写真はすべてサン・セバスティアン映画祭提供